@「原理・原則に生きる」たまに「人の迷惑気にもせず」いろんなことをする人が増えている。それが「カッコイイ」とか「凄い」と言わせたいが為に自己中心的な行動をしている。 今の米国の保護主義(都合主義・自己主義)政策も大義で言うとそうかも知れない。
日本人は往々にして「長いものには巻かれろ」、また「本音と建前」が当然のようにあると言う。だが海外から見たその姿、行動は決して許されるのものはな いと思っている。 外国人からみれば、物事への意見ははっきり自己主張することが第一で、本音、建前など説明(YesでもNoでもない表現)するものではない社会である。 ただ人生生きていく上で、「長いものに巻かれろ」は経験する、悔しい思いで自分の意見を曲げなければならない時、受け入れなければならない時は一度や二度はあるはずだ。
日本の報道・メディアにはこの原理・原則なるものを貫いている記者・社主はいるだろうか。 パナマ文書事件はすでに無かったことのように消え失せ、誰もその後追跡取材、特集などしていない。 それどころか大手企業(特にパナマ文章に掲載された)は未だかって租税回避地登録抹消、納税の支払い等をしているとは聞いておらず、消費税一つとっても国民の税金は3%から5%になった時、大手一社の正当な税金を納税すれば上げる必要がないのである。それだけ莫大な金が裏で動いるにも関わらず、見知らぬようにしているメディアも極めて寂しい。
「白洲次郎の生き方」書籍評価:親の富と財産を基に我儘、贅沢三昧した2世は、自己主義、自己中心的人物だと残念ながら思わざるを得ない。怖いもの知らずで「原理・原則を貫いた人物」と捉えるのは余りにも無理があると感じた。農業を始めた時点と諦めた時点では、苦労知らずの生活から、すぐ諦めている。ちょっとした事でも苦労、苦痛には耐えられない、放漫であり現代版ヤンキー的存在であると感じた。ただ一点、終戦後の通訳等は学生時代の経験(日本には多くの通訳者が居なかったのか英語が堪能)ということで富が築いた人脈で出来上がった人であり幸運で、思う存分人生を楽しんだ人としか見えなかった。
- 白洲次郎1902−1985 83歳没
- 英国ケンブリッジ大学に留学、10年後日本に帰国
- 父の綿貿易で莫大な富を稼ぎ出すがその後倒産、次郎が帰国
- 父は建築が道楽でその家の借金で倒産した。九州で一人暮らしとなる
- 阿蘇の山麓に立てた小屋で最後を迎え、戒名も葬式も不要と遺言
- 次郎は親の資産で英国留学中は豪華、贅沢な暮らしぶりをした
- その事で貴族や特権階級の人物ともあうことができた
- 妻となる正子は樺山資紀(伯爵)の令嬢(夫婦には4人の子供)
- 次郎の身長は175〜180cm、体格もあり、文武両道だった
- 吉田茂が英国大使館書記官の時に英国で出会う、その後終戦を迎え終戦連絡事務局参与となり米国との窓口通訳者となる
- 天皇からマッカーサーへの贈答品を「その辺に置いておけ」で粗末にできずしかるべきテーブルを用意した逸話
- 次郎はゴルフと大工仕事、そして自動車が趣味、酒も大いに飲んだが規律正しかった(酔をほとんど見せなかった)
- 正子との夫婦円満は「一緒にいない事だ」という。お互い好きな事をお互いに手がけていた。
- 次郎の老人のモットウは「老人は叱る事だ」という
- 英国紳士の夕食ルールとは「ネクタイ」が常識だった、次郎は自己の信条=プリンシプルを貫き通すことだった
- その時代1920年代、ネクタイはその人のクラスを表した
- スコッチウイスキー=元々は濁っていた匂いが強くてさっぱり美味しくなかったが、灰のアクを入れる事で澄んだ色となった
- スコットランドでは氷を入れないで飲む、氷はアメリカ風習から来た
- シングルモルツ、樽から直接瓶詰めでき経済的
- スペイン=シェリー フィノ(黄色辛口)とオロロソの2種類
- ポルトガル=ポート(日本のポートワインは偽物で一切使用許可無し)
- ポートは飲み口が甘いので葉巻にあうという(吉田茂愛用)
- フランス=ボルドーワイン(claret) もともと英国領土であったフランス南西部から発祥(15世紀半ばでフランスに戻る)10万ヘクタール、赤と白の比率は7対3
- 赤ワイン=メルロ、カベルネ・フラン、マルベック、プティ・ベルド
- 白ワイン=ソービニヨン、ブラン、セミヨン、ミュスカデ
- デカリング=ワインの瓶から別の容器に移す事
- ビール=ラガービール=スピリナーは低温で発酵させたもの、冬仕込む、穏やかな味、2次発酵が行われ、貯蔵が可能になった
- 英国の生ビールはエールと言って上面発酵、常温ホップを利用、常温13度で冷やしては飲まない
- ジン=解熱剤としてオランダ貴族が薬用に作った、杜松の実。
- 次郎の病床での言葉「右利きです、でも夜は左利きです」(夜の左利きとは大工で左手にはノミ(飲み)をもつ事の洒落を言った
- 車と次郎は人生そのもの
- 17歳(1910年)でアメリカ車を運転(ペイジ・グレンブルック)
- 英国留学ではブガッティ35(イタリヤ製)、ベントレー、ランチア・ラムダ
- ベントレーは元鉄道技術師、のちにロールスロイスが買収
- 日本ではジープ、ローバー(操業は自転車屋、海賊という意味)70歳でポルシェ911を乗り回す
- 次郎は帰国後農業にも専念、しかし台風でやられ田畠を売り払い挫折、軽井沢ゴルフクラブ運営に携わるが頑固親父でルールを徹底させた
- 原理・原則に生きた男として紹介された本