雪月花 季節を感じて

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ひきざんのくらし

2007年10月24日 | たまゆら ‥日々是好日(随筆)
 
 秋の終わりの節気、霜降を迎えました。乾いた秋晴れがつづいていますものの、風のある日はカサコソ‥と枯葉の舞う音も聞こえてきますし、夕陽がつるべ落としのごとく落ちて、雀時色にうつる空をながめていますと、わけもなく憂愁に閉ざされてしまいます。気分転換に思いきって家じゅうのカーテンをすべて洗ってきれいにしましたら、部屋の中も気持ちもいくらか明るくなりました。カーテンをとおして風が吹きこみますと、ふわりと(柔軟剤の)花の香がただよいます ^^


 不惑を迎えたころから、人生を八十年と仮定するなら、ちょうど折返し地点をすぎたところだと意識するようになりました。さらに、八十年を一日二十四時間に換算すると、わたしはいま正午をすぎて午後一時にはなっていないという、晴れた日ならもっとも日光のつよい時間帯を生きていることになります。そう考えますと、わたしと年齢の近い男性がみな働き盛りといわれることもなんとなく納得できますし、うれしいことに、女性は四十代こそ陽光に向かって咲き誇る大輪のひまわりといえるかもしれません。実際、仕事、子育て、社会活動に精一杯がんばっている同年代の人はたくさんいますし、時折この年齢でブログの記事を書く余裕があるなんて恥ずかしいことかも‥という気持ちになります。いえ、その気持ちを忘れてはいけないと思っています。でも、それより何より、わたしには「もう折返し地点をすぎてしまった、この世にいられるのもあとわずか‥」という思いがつよいのです。

 「死は前よりしも来らず。かねてうしろに迫れり」(『徒然草』 百五十五段より)と覚悟するほど潔くはないので、せめて八十歳を人生の終点として、そこから逆算をしてみるのですね。つまり「あと四十年足らず」と考えます。でも、終点まで無事にたどり着けるかどうかなんて分かりませんから、もっと短く見積もってよいでしょう。そうしますと、最後を迎えるときの、理想の自分の姿にできるだけ近づくためにどうすればよいか、案外明確に見えてきます。たとえば、くらしについてなら、「雨露をしのぐささやかな家、夫とふたり分だけの野菜をつくる畑、衣類やきものが数点、最低限必要なお金とくらしの道具」といったところでしょうか。(わたしたちの老後は年金が支給されるかどうかすら不明ですから、これでも贅沢かもしれませんけど、そのことはいますぐ解決できないので考慮に入れません) そこでハタと気づくのは、そんな理想の“身軽なくらし”にひきくらべて、いまのわたしはあまりにも不要なモノを持ちすぎているということでした。(勘違いなさらないでくださいね、これでもわたしはかなり持ちモノのすくないほうです。でも、死ぬまで必要なモノなんて、ほんのわずかなはずですから)

 そこで、これからすこしずつ身のまわりの整理をしてゆくことに決めたのです。老いてしまってからでは、こんなにたくさんのモノを整理するのはたいへんでしょうから。これまでは「たしざんのくらし」でしたけれども、これからは「ひきざんのくらし」です。ひいてひいてひいて‥かぎりなく0(無)に近づけるように─「老いじたく」をとおり越して、きれいさっぱりとこの世からおさらばするための「死にじたく」─です。

 晴天の風通しの良い日を選び、まずは箪笥や押入れから不要なものはないかと真剣に?探しています。モノにあまり執着のないわたしでさえ、いったんは処分しようと決めたのに、最後に迷ってしまってふたたび箪笥にもどしてしまうことも‥。なかなか時間と手間のかかる大仕事になりそうです。 ‥主人が、「ぼくのたいせつなモノまで処分しないで」と、不安そうに見つめています(笑


 片付けをしながら、ふと思います。「ひきざん」は、かつての日本のくらしでは当たり前のことだったのではと。くらしだけでなく、一般に日本の良きもの、伝統あるものにおいては、余分なものを省いたり削ったりということを繰り返してつきつめてゆき、最後にのこったものをよしとしてきたのではないかしら‥と。いつのころから、わたしたちはたしざんのくらしを追い求めるようになったのでしょうか。

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