ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

【セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】⑩ 最終回

2018年05月05日 | 研究余話
 セガンがイタールと関わりを持ったということを初めて述べたのは、1842年に刊行した『遅れた子どもと白痴の子どもの教育理論と教育実践』という報告書の末尾においてである。このことは日本人研究者にはほとんど知られていない。後年の著書には、イタールとの関係が、たびたび述べられるようになるが、この著書での筆致と後年の筆致とはずいぶんと差がある。後年のそれはイタールに批判的であるのに対して、1842年のそれは感謝の念が前面に押し出されている。
 セガンにとってイタールは、まずは、白痴教育への道案内とイタールが考案した様々な教具・教材等の提供者であったから率直に敬意を表し、感謝の念を表した(1842年)。しかし、その教育のプロセスと成果について、セガンは、イタールのそれに飽き足りないものを覚え、独自のプロセス、教材、成果を創出した。それがイタール批判の文言となって表れたわけである。
 このことは、すでに1843年の報告書(『白痴の衛生と教育』)で語られている。哲学的な背景を、セガンは、「イタールは18世紀の唯物論(注:かの啓蒙主義、百科全書派のこと)に導かれていた、私は遅れてきた者の特権、19世紀の啓蒙主義(注:サン・シモン主義の主唱する新百科全書、すなわちキリスト教社会主義哲学)に導かれた、と。
 ところで、既述のティエリー・ギネスト氏は、重篤の病気で療養中のイタールのところへセガンが、最後の白痴教育に関する実践上の助言を受けに通った場面を「イタール伝」の中でつづっている。1837年6月のことだという。ギネスト氏は、その判断根拠を明示しておられないのだが…。
 その翌月の始め、療養先のパリ郊外パッシーで、イタールはこの世を去った。63歳の人生であった。亡骸はパリに運ばれ、ヴァル・ド・グラス大聖堂でミサが執り行われ、モンパルナス墓地に葬られた。彼の死を惜しみ悼む人々による葬列が長く長く続いた。
 だが、私は、その葬列者名簿の中にセガンの名を認めることはできていない。

(追記)この方面の知見を持たないでセガン研究を進めてきたために、大いに苦しみぬいてきたし、今もそうだ。ルソーと一直線に結び付けてしたり顔するほどには、私には度胸がない。


添付写真はモンパルナス墓地のイタールの墓(個人募) この「発見」に3年という年月を要した。

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