ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン評価初訳出文「発見」

2018年04月16日 | 研究余話
セガン生誕100年祭の催しが1980年に行われた。ネット上でその記事を見つけ、セガンのフランスにおける「評価」を知ろうと訳出作業をしている。2003年5月末のことだ。清水寛氏から情報収集依頼を受けて行った作業の一つ。知的障害教育領域、その歴史領域、もちろん「セガン」について何も知らないときのことである。フランス語能力も低い時だ。セガン初学びの記念碑である。今、字句訂正もなしに掲載。
****
彼はすでに一般的な教育に対して非常に批判的であった:「社会(la société)は医学のように、いつまでも記憶術の実践で満足する術を心得ることであってはならないのだ。記憶術の実践は、外側から、そして概念の包括性を口実として、言語機能の教育、能力の教育、適性の教育、道徳的および美的感覚の教育をなおざりにし、根元的な無能扱いにして打つことによって、活発な青少年期の自発的で適応できるすべての能力を奪い取ってしまう。」
さらに彼は、保育園の必要性に関して述べるようになる。
先駆者たち、とくに子どもを外側から刺激するイタールとは逆に、彼は、人間性は複雑であり、「内的な人間性」こそが生理的な行動と関連して心理を規定する、と考えた。彼は、インプレッションは乳児期の本能が出来するとことの内的器官から生ずると考えるキャバニスを参考にした。のちに大脳が調整機能を果たす。
それ故、教育は内面から行われる。彼は、こうして、内面の感情、自発性、活動、すなわち知的、筋肉的、感覚的機能、思考、運動、感覚器官に依拠しようとする。
彼は…治療を固着する前に、性、気質、遺伝、病歴、大気要因を重視しようとする。また彼は、感情要因、自発性を尊重しようとする。彼は子どもがその環境に対して働きかけ揺り動かす精神を活動させ主体であることを可能ならしめようとする。
それ故セガンは「活動メソッド」と呼ばれるものの起源でもある。
その方法は積極的であろうとする。すなわち子どものありのままから出発し、あらゆる変則を可能性に依拠するものとして重視する。
セガンは白痴を歴史をやり直さなければならない未開人と比較する。また彼は普通の子どもに対しても同じことを考えている。このことは後にクラパレードによって遊びを説明しようとする時に採り入れられることになる。
それらの目標は、子どもが衝動を制御するのを、正確さを身につけるために運動感覚機能を発達させるのを、そして知性と意志とを開始するのを援助するところにある。
意志は4種類ある:それらは衝動を制御する。意志は知的活動をなすことと道徳的感情を作らせることとを向き合わせることに働く。意志のハンディキャップを持つ青少年は知的活動をなすことと道徳的感情を作ることが妨げられる。
教育課程においては、まず教師が生徒にたいして望み、そののち生徒が一人で望む。
生徒が提示される諸方法:
-どの生徒にも適った療法を伴う衛生、栄養、服装の計画に関する物的な良好条件。
-教育活動のためにそのプログラムは三つの与件に基づいている:
白痴児があまりにも動かないような時には筋肉組織の教育が為される。そのために、彼は、そのことを考えついた人々、すなわちローマ人やギリシャ人を参考にしている。彼は身体全体の動作の重要性を考えている。そこで、彼は体育を採り入れている。
それとは逆に、情緒不安定児にたいして、彼は不動の状態を強制する。
彼は無秩序な活動から必要な活動へと移ることを教える。
全体から始まり、そして分析へと進む。後にO. ドクロリーがこの手続きを採りあげることになる。
-自および非自意識を作る模倣。模倣物の認識の訓練が採り入れられる。さらに動機づけはこの模倣において非常に重要である。

ブログ「鐘の音」(飯箸泰宏氏)にぼく+セガンが主題に

2018年04月16日 | 研究余話
 飯箸泰宏さんという情報システム分野の方がおられる。なかなかご活躍の方のようだ。先日、近在の喫茶店で、彼のご友人と3人で、4時間ほど語り合った。その時のことを踏まえて、飯箸氏がご自身のブログ『鐘の音』に交遊録の一ページとして綴っている。大変ありがたい記事。読んで損はない。