錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

錦之助の代表的シリーズ作は?(その2)

2006-08-20 03:49:55 | 錦之助ファン、雑記
 『一心太助』は、シリーズ化するには最も適した映画だったと思う。第2作『天下の一大事』(昭和33年10月公開)を作り終わった段階で、シリーズ化を考え、東映本社が腰を入れて製作すれば、10作以上のシリーズになったと思う。錦之助の一心太助は、たとえ5作しか作られなかったにせよ、他の俳優の追随を許さない代表的なヒーローだったと私は確信しているが、それにしても作品数が少なすぎた。あと何本かあれば、東映時代劇という小さな枠を越え、昭和史に残る国民的ヒーローになっていたのではないかと思う。雷蔵の眠狂四郎、勝新の座頭市と並び称されるだけでなく、渥美清の車寅次郎とも肩を並べるヒーローになっていたのではあるまいか。
 そう思うと、『一心太助』の中途半端な終わり方が、私は残念でならない。まず、今もって不可解に思うことは、『一心太助』を第3作で終わりにしようとした製作スタッフの意図である。後になって、ファンの要望に応え、全く趣向を変えて第4作を作り、さらにまた第5作を作るくらいなら、なぜ途中で長続きするような企画に方針を切り替えなかったのだろうか。東映に先見の明のあるプロデューサーがいたら、こんなことにならなかったと私は思う。第3作『男の中の男一匹』(昭和34年11月公開)で、沢島忠監督も錦之助も「一心太助」は終わりにしよう思った。これは確かなことである。それは、太助とお仲との祝言から始まって、途中で大久保彦左衛門を死なせたことに、はっきり現れている。太助は彦左衛門の教えを守り男一匹立派に生きていこうと決心して、第3作は終わる。つまり、どう見てもこれで「完」である。
 「一心太助」の場合、第3作を企画した段階か、あるいはシナリオの初稿が上がった段階で、東映の上層部が錦之助と沢島監督の意向を汲んで、シリーズ化を断念したような感じがする。それにしてもなぜ、大川社長をはじめ撮影所長がこれに対し強硬に反対しなかったのだろうか。それが不思議でならない。昭和33年に公開された「一心太助」は2作とも大ヒット作だった。一般の観客はいうまでもなく、「キネ旬」の口うるさい評論家にも好評だった。錦之助は「一心太助」でブルーリボン大衆賞まで受賞している。もし私が東映のプロデューサーだったなら、彦左衛門を死なせてしまうといった愚挙には猛反対しただろう。「一心太助」を続けられるよう、脚本を書き直すように命令したと思う。
 実際このシリーズの再開を望むファンは多かった。そこで、東映は第4作『家光と彦左と一心太助』を製作する。この作品は、東映の娯楽時代劇も衰退の一途をたどり始めた昭和36年1月に封切られた。製作サイドが錦之助の「一心太助」にあやかって観客動員をもくろんだ作品だったが、これは見事に当たった。話の設定を変え、時の流れを逆戻しして、彦左衛門を月形龍之介から進藤英太郎に代えて復活させるなど、いわば苦肉の策を図って作ったのだが、奇抜なアイディアが効を奏し、大変面白い映画となった。錦之助の娯楽映画として愉快で楽しめる明るい作品はこれが最後だったかもしれない。
 私が腹立たしく思うのは、第4作の後、もちろん錦之助の了承を得てのことだろうが、一心太助を松方英樹にバトンタッチさせ、月形の彦左衛門を生き返らせて、『天下の御意見番』(昭和37年)という映画を作ったことである。監督は松田定次、脚本は小国英雄で、これはいわばミニ・オールスター映画であった。千恵蔵と右太衛門の両御大もこの映画には出演している。松方が太助と家光の二役を演じるのは荷が重かったのか、家光は北大路欣也がやっていた。東映は北大路欣也と松方英樹という二人の二世若手スターを懸命に売り出そうとしていたが、人気が上がらず、期待に添わなかった。
 この頃の東映は、混迷期にあった。拡大化路線も大作主義も失敗し、娯楽時代劇はマンネリ化し、観客数が激減していた。スター・システムによる映画製作も行き詰まり、千恵蔵や右太衛門は年老い、錦之助や橋蔵でさえ往年の人気が落ちていた。集団殺戮時代劇から、任侠やくざ路線へ突き進むまでの転換期にあった。第5作『一心太助・男一匹道中記』(昭和38年1月公開)が製作されたのはちょうどそんな頃だった。これは、蛇足のような作品で、初めの3作とは違い、このブログにも書いたが、一心太助らしさとその長所を失ってしまっている映画だった。第5作は無理矢理作ったような感じで、出来も良くなかった。正月公開作なのに、娯楽性も薄く、虐げられた漁民の蜂起を太助が扇動するといった内容の映画だった。前年の正月公開作も錦之助のシリーズ作で、『若き日の次郎長・東海のつむじ風』だったが、これもまた似たような内容で、馬子の蜂起を次郎長一家が支援する映画だった。どちらも正月にふさわしくない暗い映画で、二年続けてどうしてこんな映画を上映したのか、首をかしげてしまう。これで、錦之助のシリーズ作が二つとも打ち切られることになってしまったのだから、文句も言いたくなる。


 では、なぜ、錦之助主演の娯楽映画の代表作がシリーズとして長続きしなかったのだろうか。その理由は、今考えると、東映という会社の側にもあったし、また錦之助自身の俳優としての姿勢にもあったように思われる。まず、東映という会社が殿様商売で、見通しが甘かったことがあるだろう。錦之助主演のヒット作をシリーズ化する企画力にも意欲にも欠けていた。誰か一人でも豪腕プロデューサーがいれば、錦之助の代表作をシリーズ化して収入安定の道をはかることを考えたのではないだろうか。東映の幹部は錦之助の意向に譲歩しすぎたきらいがある。東映では演技力随一の錦之助を大作に出演させようと考え、妥協したのだろう。大作に出演することは、錦之助自身が望んでいることでもあった。この頃の錦之助は内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆の三巨匠による大作に全力を傾け、芸術志向も強くなっていた。錦之助は特定の作品のシリーズ化によって縛られることを避けていたのではないかと思う。型にはまることを嫌い、絶えず新しい役どころに挑戦しようという姿勢こそ、錦之助が俳優として何よりも大切にしていたことだった。錦之助は俳優として芸の幅がありすぎた。しかも、絶えず腹の中で「芸の虫」がうずいていた。この抑えがたい芸の虫が、きっと錦之助に同じ人物を演じ続けることを拒んだのだと言えるかもしれない。



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4 コメント

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錦之助はシリーズ嫌い! (倭錦)
2006-08-24 19:55:51
 背寒さんこんにちは

毎回、楽しみに拝読しています。初めてコメントします。

 錦之助のシリーズ作について、錦之助はシリーズが嫌いであった!! (というのは、錦之助のインタビューでも同じ演技は嫌いだ!!)というのが有りましたが錦之助は常に新しい演技を求めて前に進んでいた為シリーズを嫌ったと思われます。

 錦之助の考えとして同じ役は三本まで!!という信念が有ったと思います、一心太助も彼の考えから三本で打ち切るつもりで沢島監督と相談して彦左衛門を死なしてピリオドを打ったけど、会社の意向で続行が決まった為、テーマもメークも変えて新しい太助を創造し“家光と彦左と一心太助”を演じた! しかしそれでも又、会社は続けるというの“男一匹道中記”ではまったく別物の太助にしてピリオドにした!!という私の考えは穿ち過ぎでしょうか?

 “信長”にしても“殿さま弥次喜多”“石松”にしろ彼は三本で打ちとめていますが、“源氏九郎”に至っては原作を外れキャラクターさえ変えてしまっています、この作品は当初”柴錬”が錦之助をイメージして播磨屋の屋号から“秘剣揚羽の蝶”をあみ出して雑誌連載を考えていたと言う話を何かで見たような気がします、同じ原作者の”剣は知っていた””美男城”も“柴錬”の“戦国流離譚三部作”として”孤剣は折れず”まで企画(小川三喜夫)されましたが、“孤剣は折れず”は何故か?鶴田浩二に変わっています、その間の事情は判りませんが“美空ひばり”が共演と言うことで何となく想像しています。(この頃、錦之助はひばりとの競演を避けていた節が有る!!)“宮本武蔵”は別格として他の五部作は初期の会社の押し付け企画ですからやむを得なかったのが実情だと思います。

 私個人としては“柴錬”ものは結構好きでしたから“源氏九郎”は続けて欲しかったし又、“孤剣は折れず”は是非錦之助で観たかったと当時の残念さが思い出されます。

 話は変わりますが“若き日の次郎長”シリーズは錦之助も気に入っていてシリーズにしても良い思っていたようですが、“殴りこみ甲州路”(マキノ得意の“喧嘩笠”のリメーク)のころからマキノ監督としっくりせず(マキノ監督が錦之助の大作優先を嫌った?)マキノ監督は鶴田浩二で“次郎長三国志”へシフトし錦之助とマキノ監督は“日本侠客伝”を最後に袂を分かつ!!(マキノ自伝の“渡世無頼”より想像して!!)
ほぼ同感です。 (背寒)
2006-08-24 23:07:37
倭錦さん、コメントどうもありがとうございます。このブログを書く励みになるので、ぜひちょくちょくコメントをください。お願いします。錦之助のことばかりこんなに長々と文章にしているのは、なんだか今は私くらいしかいない気がしています。孤軍奮闘で錦之助賛歌を書いていますが、これからも頑張りますのでよろしく。

さて、シリーズ作が続かなかった理由に関しては、錦之助自身が望んでいなかったことにあった。それは確かだと思います。「同じ役は3作まで!」というのは、結果的にそうなってしまいましたが、錦之助にそういう信念があったかどうかは分かりません。ただ、一作一作、役に打ち込む彼の姿勢からすれば、シリーズ作は向かなかったのでしょうね。まあ、子連れ狼なんかは、経済的な理由もあって、ずっとやっていましたが…。

柴錬が錦之助をイメージして播磨屋の定紋から『源氏九郎』の「秘剣揚羽の蝶」をあみ出したというのは知りませんでしたが、本当ですか?加藤泰監督の2作はどうも出来が悪いし、伊藤監督の3作目も期待はずれでしたね。柴錬の小説では、アウトロー的な「眠狂四郎」ならともかく、「源氏九郎」ではいかに伊藤監督でも脚色のしようがなかったのではないでしょうか。錦之助はずいぶん張り切っていたようですが、『反逆児』や『徳川家康』に比べると、見劣りしました。加藤泰が師匠の伊藤大輔にバトンタッチして作ってもらったのは分かりますが、違う監督なら、もしかすると長続きしたかもしれませんね。(佐々木康とか…)倭錦さんは美剣士ものがお好きなようですが、私はどうもダメなんです。というか、錦之助は美剣士役はマスターできなかったと思っています。本人も「外面的な美しさより内面的な美しさを見てほしい」みたいなことを言っていましたが、ファンの要望で仕方なく演じていたきらいがあります。「孤剣は折れず」までの3部作の企画については知りませんでした。あれは、鶴田浩二でしたか。パッとしない頃ですよね。

マキノ監督と錦之助のことについては、私もいろいろ読んでいますが、あんなに仲が良かったのに錦之助はある時期からパタッとマキノ監督のことを話題に上げなくなりましたね。絶対人の悪口を言わないことが錦之助の偉いところですが、錦之助の方が相当むかっ腹を立てていたことは推測できます。マキノ監督はいつも「錦坊はオレが育てた」みたいなことを自慢していましたからね。「錦坊」呼ばわりはひどいし、マキノ監督が丹念に教えたのは「石松」と「おしどり駕篭」と「弥太郎」くらいで、「オレが育てた」は言い過ぎでした。でも、『日本侠客伝』で二人が袂を分かったのは、自然の成り行きだったと思います。東映も任侠路線に転換する頃で、錦之助も疎外され始めていましたから。では、また!

訂正と感謝 (倭錦)
2006-08-24 23:58:21
 背寒さん、早速の返信に感謝します。

小生、歳のわりにせっかちで、その場の気まぐれで確認もせず書いてしまっていつも後悔していますが今回もマキノ監督の自伝・渡世無頼と書きましたが、先程風呂の中で“映画渡世”で有ったと思い出し、訂正しようと思ってブログを開いて返信を読み恐縮しています。小生と違って“物書き”を渡世としている(多分!!)背寒さんの文章力に気後れしながらも時々はお邪魔したいと思いますので宜しく!!
どうも (背寒)
2006-08-25 16:11:25
「映画渡世」でしたね。私も思い違いで変なことを書いてしまうことが多く、直せるものは直していますが、直せない時は困りますね。

私は「物書きを渡世としている」というより、語学本なんかを書いて出版している者です。以前はずっと塾で中学・高校生に英語を教えることをなりわいにしていましたが、倭錦さん同様、引退しました。今は出版業を営みながら、好きなことをやっています。

錦之助さんの映画のこと、ぜひ語り合いましょう!知らないこともたくさんあるので、いろいろ教えてください。

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