泉城の古代日記 コダイアリー

古代史とあれこれ

江田船山古墳と稲荷山古墳の鉄剣銘文はワカタケルではない

2019-07-04 00:53:15 | 日記
 古代史では2つの有名な鉄剣銘文があります。

 通説では、
 ①熊本県江田船山古墳出土の鉄剣銘文(以下江田船山銘文)
 ②埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文(以下稲荷山銘文)

 この江田船山銘文と稲荷山銘文には、ともに雄略天皇=大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の名があると解釈されます。
 これらによって、5世紀には九州から関東まで雄略天皇が統一していた証拠であるとされます。
 しかし、落ち着いて古墳の状況をみれば、その結論は疑問です。

江田船山銘文には

天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、六十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

とあります。

江田船山銘文は「治天下獲□□□鹵大王世」と読むのが一般的ですが、□は判読不能ですから、決してワカタケルと判別できるわけではありません。

あくまで「獲□□□鹵」であって名前と思われる5文字のうち3文字が読めないにもかかわらず、通説は、「ワカタケル」であると推測しているにすぎません。

この7世紀までの時代の九州は、倭国(九州王朝)が統治していたと『隋書』に記されていますので、「獲□□□鹵大王」は九州の倭国の大王とするのが適切です。


一方、
稲荷山銘文には

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。


稲荷山古墳の鉄剣には、確かに「獲加多支鹵大王」と刻まれています。
ただし、万葉集で「支」は「キ」と読まれ「ケ」と読まれた例はありませんから、漢音で、「カ(ク)カタキロ」、呉音で、「ワ(ク)カタキル」であって直ちに「ワカタケル」ではありません。

「カ(ク)カタキロ」や「ワ(ク)カタキル」は雄略天皇であるとは言えません。

また、関東のヲワケの一族が雄略天皇など天皇のおそばで親衛隊長をつとめてきたというのは無理がありますね。

稲荷山古墳の中央に埋葬された「主」である大王に対して、脇の方に埋葬されたヲワケは、その大王の従属者という関係ですから、銘文の中の大王は、この古墳の中央にある「主」であると考えられます。
古墳の状況は、鉄剣銘文の大王について、雄略天皇ではなく、関東の大王を指しています。

したがって、これらの二つの鉄剣銘文は雄略天皇が九州から関東まで支配していた根拠にはなりません。




あいちサマーセミナー2019

2019-06-23 00:32:16 | 日記
2019年も「あいちサマーセミナー」で古代史の講座を、次のとおり7月14日(日)の13時過ぎから連続して行います。無料です。
古代史に関心のある皆様の参加をお待ちしています。

●開催日時・場所
7月14日(日)3限(13:10へ14:30) 南山高等・中学 男子部 東校舎4階 中教室1
7月14日(日)4限(14:50へ16:10) 同上
名古屋市営地下鉄「いりなか駅」下車、西へ徒歩3分 

●講座情報
タイトル:教科書が書かない日本の古代史 ・ 元号の謎
講  師:古田史学の会・東海の会員
紹  介:
 「平成」、「令和」と引き継がれた年号(元号)の成り立ちはどのようか。
 『日本書紀』では、645年に初めて「大化」、続いて「白雉」の元号が各5年あり、その後途切れて、1年のみ「朱雀」があり、701年の「大宝」から現在まで年号が継続している。年号の成り立ちや年号が途切れることについて、高名な学者は答えてくれない。教科書にも書かれない。
 その謎に迫ります。

考古学の通説は間違いだらけですよ。

2019-06-13 21:21:54 | 日記

2019年6月10日 BS-TBSで放送された、「にっぽん!歴史鑑定」の番組では、各地の豪族は、鉄と技術者が欲しいために大和政権の傘下に入ったとし、前方後円墳の築造は大和政権の認可制であったと説明されていました。
とんでもない馬鹿げた説明です。

4世紀前まで大和から鉄の出土がないのは、ちまたの研究者でも知っている常識です。
大和から鉄製品が出土するのは、せいぜい4世紀以降であって、それより早く九州、四国、中国地方から多数出土していますから、全く鉄の出土状況を踏まえていない説明です。鉄は圧倒的に九州が有位です。

また、鉄製造の技術は、現在の発掘状況では、壱岐のカラカミ遺跡が最初で、次第に九州北部に広がっていきます。大和は鉄の後進地域です。

ですから大和が鉄を分け与えたり技術者を派遣するような状況にはありません。全く根拠がなく説明者は、大和を中心との考えで、事実を捻じ曲げています。

3世紀までの鉄器の出土状況は次のとおりです。



また、これまでの通説にそって前方後円墳は大和が中心かのように説明していましたが、これも全く間違いで、文化庁や日本考古学協会にだまされています。
確かに巨大な古墳は近畿にありますが、次の図のとおり前方後円墳が圧倒的に多いのは関東地方です。



また、5世紀から6世紀の巨大古墳の石棺は、九州のピンク石、阿蘇山の「溶結凝灰岩」が使用されており、さらに、九州を中心とする装飾古墳は、関東や東北にまで広がっており、やはり石室も九州の影響が大きいのです。



ですから、この番組の解説者の説明はばかばかしく、こういう嘘を垂れ流す番組は全く信用できません。
メディアによるフェイクは、日本の古代史にも広がっていますので注意しましょう。

日本に伝わった漢字

2019-04-26 01:09:26 | 日記
記紀によると、日本に漢字が伝わった時期は、応神十五年の404年です。

第15代の応神十五年の記事では、
百済から来た阿直岐は、経典をよく読んだので、日本の太子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は阿直岐を師としたと記されています。

この第15代の応神十五年の時期は、記事内容から404年とみてまず間違いありません。
百済の阿花王が死去は、阿莘王十四年(405年)で、それが書紀では応神十六年だからです。

仏教伝来の欽明十三年(552年)より、随分古いことになります。

詳細はこちら。
古代日本の文字 


超簡単!  邪馬壹國と投馬國の場所 

2019-04-07 02:16:07 | 日記
邪馬壹國、いわゆる邪馬台国の位置は、出発地の帯方郡の役所(帯方郡治)から12000里(960km)ほどの距離であると、『魏志』倭人伝に記されています。


松浦半島に上陸するまでに11400里(912km)ほど、かかります。
ですから、九州に上陸してからは、残り600里(48km)程度です。  12000里-11400里=600里
そして、ほぼ東方にあるとします。


松浦半島から東のほうにある博多湾岸のあたりまでで、およそ50km程度ですから、博多湾岸(北部九州)のあたりが邪馬壹國です。

邪馬壹國の場所さがしは、このようにとても簡単です。




投馬國の場所は、次の3条件をすべて満たすところです。

第1 邪馬壹國(博多湾岸・北部九州)より北に位置する。

第2 帯方郡(ソウルあたり)から南へ水行二十日のところに位置する。

第3 邪馬壹國の次に大きな5万戸の国である。


倭人伝を書いた役人(陳寿)は、
邪馬壹國より北の国々について、戸数・道里などを記しています。
投馬國は、戸数・道里が「5万戸・水行20日」と記されているので邪馬壹國より北にある国です。


邪馬壹國より南の国々については、遠方なので国名だけを記します。次の21カ国です。

斯馬國、  已百支國、
伊邪國、  都支國、
彌奴國、  好古都國、
不呼國、  姐奴國、
對蘇國、  蘇奴國、
呼邑國、  華奴蘇奴國、
鬼 國、  爲吾國、
鬼奴國、  邪馬國、
躬臣國、  巴利國、
支惟國、  烏奴國、
奴國。


このなかには、投馬國の国名はありません。

ですから、投馬國はまちがいなく邪馬壹國(博多湾岸・北部九州)より北にある国です。とても簡単です。


通説では、投馬國の場所を九州南部にあるとしますが、以上のとおり『魏志』倭人伝の記述とは全く合致せず、間違いです。

博多湾岸(北部九州)より北に位置し、帯方郡から水行のみで至る場所は、対馬海峡に位置する島です。


朝鮮半島南端から九州北端までは、帯方郡の役所から少し水行がありますので、それを勘案すれば、およそ10日弱です。
それは、およそ250km弱です。





また帯方郡から投馬國までは、20日かかるとされますから、およそ倍の日数(距離)です。それは、およそ500kmです。




朝鮮半島南端から九州北端までのおよそ倍の距離を、帯方郡から南へあててみると、そこには済州島があります。




投馬國は5万戸です。邪馬壹國の7万戸の次に人口が多く、対馬や壱岐に比べてかなり大きな島です。

当時の人口は、不明ですので大きさで比較すれば、対馬海峡で最大の島、済州島が投馬國に相応しいです。

九州北部の大きさと比べれば一目瞭然です。





済州島は最初に示した3つの条件をほぼ全てを満たしますので、投馬國は済州島であると結論づけます。
倭人伝の記述にそって図示すれば、次のとおりです。




細かいことは省きましたので、ご質問がありましたら、コメントでどうぞ。