古代史では2つの有名な鉄剣銘文があります。
通説では、
①熊本県江田船山古墳出土の鉄剣銘文(以下江田船山銘文)
②埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文(以下稲荷山銘文)
この江田船山銘文と稲荷山銘文には、ともに雄略天皇=大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の名があると解釈されます。
これらによって、5世紀には九州から関東まで雄略天皇が統一していた証拠であるとされます。
しかし、落ち着いて古墳の状況をみれば、その結論は疑問です。
江田船山銘文には
天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、六十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。
とあります。
江田船山銘文は「治天下獲□□□鹵大王世」と読むのが一般的ですが、□は判読不能ですから、決してワカタケルと判別できるわけではありません。
あくまで「獲□□□鹵」であって名前と思われる5文字のうち3文字が読めないにもかかわらず、通説は、「ワカタケル」であると推測しているにすぎません。
この7世紀までの時代の九州は、倭国(九州王朝)が統治していたと『隋書』に記されていますので、「獲□□□鹵大王」は九州の倭国の大王とするのが適切です。
一方、
稲荷山銘文には
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
稲荷山古墳の鉄剣には、確かに「獲加多支鹵大王」と刻まれています。
ただし、万葉集で「支」は「キ」と読まれ「ケ」と読まれた例はありませんから、漢音で、「カ(ク)カタキロ」、呉音で、「ワ(ク)カタキル」であって直ちに「ワカタケル」ではありません。
「カ(ク)カタキロ」や「ワ(ク)カタキル」は雄略天皇であるとは言えません。
また、関東のヲワケの一族が雄略天皇など天皇のおそばで親衛隊長をつとめてきたというのは無理がありますね。
稲荷山古墳の中央に埋葬された「主」である大王に対して、脇の方に埋葬されたヲワケは、その大王の従属者という関係ですから、銘文の中の大王は、この古墳の中央にある「主」であると考えられます。
古墳の状況は、鉄剣銘文の大王について、雄略天皇ではなく、関東の大王を指しています。
したがって、これらの二つの鉄剣銘文は雄略天皇が九州から関東まで支配していた根拠にはなりません。
通説では、
①熊本県江田船山古墳出土の鉄剣銘文(以下江田船山銘文)
②埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文(以下稲荷山銘文)
この江田船山銘文と稲荷山銘文には、ともに雄略天皇=大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の名があると解釈されます。
これらによって、5世紀には九州から関東まで雄略天皇が統一していた証拠であるとされます。
しかし、落ち着いて古墳の状況をみれば、その結論は疑問です。
江田船山銘文には
天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、六十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。
とあります。
江田船山銘文は「治天下獲□□□鹵大王世」と読むのが一般的ですが、□は判読不能ですから、決してワカタケルと判別できるわけではありません。
あくまで「獲□□□鹵」であって名前と思われる5文字のうち3文字が読めないにもかかわらず、通説は、「ワカタケル」であると推測しているにすぎません。
この7世紀までの時代の九州は、倭国(九州王朝)が統治していたと『隋書』に記されていますので、「獲□□□鹵大王」は九州の倭国の大王とするのが適切です。
一方、
稲荷山銘文には
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
稲荷山古墳の鉄剣には、確かに「獲加多支鹵大王」と刻まれています。
ただし、万葉集で「支」は「キ」と読まれ「ケ」と読まれた例はありませんから、漢音で、「カ(ク)カタキロ」、呉音で、「ワ(ク)カタキル」であって直ちに「ワカタケル」ではありません。
「カ(ク)カタキロ」や「ワ(ク)カタキル」は雄略天皇であるとは言えません。
また、関東のヲワケの一族が雄略天皇など天皇のおそばで親衛隊長をつとめてきたというのは無理がありますね。
稲荷山古墳の中央に埋葬された「主」である大王に対して、脇の方に埋葬されたヲワケは、その大王の従属者という関係ですから、銘文の中の大王は、この古墳の中央にある「主」であると考えられます。
古墳の状況は、鉄剣銘文の大王について、雄略天皇ではなく、関東の大王を指しています。
したがって、これらの二つの鉄剣銘文は雄略天皇が九州から関東まで支配していた根拠にはなりません。