10時と3時のいっぷく

零細建築設計事務所の日常とその周辺を、コーヒータイムに綴ります。

大黒柱を失った日

2009年02月09日 | 未分類
このブログは、タイトルの副題にもあるように、「零細建築設計事務所の日常と周辺」を綴っていますが、あまりにもプライベートなことを書く事はなるべく避けて来ました。
しかし、今日は少し長くなりますが、私の個人的なことを書きます。それは、私の大切な人に対する感謝の気持ちをここに記しておきたかったからです。

私は「プロフィール」の略歴にもあるように、幼い時に両親を失いました。4人の兄弟姉妹だったのですが、その後私たちを育ててくれたのは祖母でした。もちろん、祖母一人の力では限りがあります。親戚や近所の方々には大変お世話になったことと思います。私の母は独身時代に教師をしていたせいか、『子どもたちを高校だけは出してくれ』と祖母に言い残して逝きました。姉と兄は祖母の弟の家に下宿して高校に行きましたが、私は自宅から通学することになりました。当時、家から通える高校は普通科のA高校と、建築科や土木科のあるB高校でした。その頃の私は漠然としてではありますが、雑誌の編集のような仕事をしたいと思っていたので、A高校に行って、さらに大学へ進むか、あるいはその方面に就職することを希望していました。

母の兄である伯父は、両親を亡くした私たちを親代わりになって面倒を見てくれました。
その伯父がある日、『これからは建築が良い。伯父さんが授業料を出してやるからB高校の建築科へ進学したら良い』と言ったのです。祖母にとっては大助かりだったと思います。進路を最終的に決めるという三者面談の朝、祖母に“最後のお願い”をしたのですが、祖母の涙を見たとたん、A高校への進学を諦めました。当時の私の同級生の高校進学率は6割程度でしたから、贅沢は言っていられない、高校へ行かせてもらえるだけでも有り難い、と思いました。その後は「プロフィール」にも書いてある通りです。当時の自分の志望とは異なりましたが、伯父が、私の性向を知った上でのことか、ただ単に世の中の経済情勢を判断してのことだったのか分りませんが、今の自分があるのは、伯父のおかげである事には変わりありません。伯父にはその後も、所帯を持ってからも、色々と世話になりました。

その伯父が、7ヶ月余りの入院生活も空しく、去る2月4日帰らぬ人となりました。87才でした。その日私は入院している義父の病院で主治医から義父の病気について説明を聞いていました。その最中に兄から伯父の容態が思わしくないとの連絡を受け、すぐそちらへ廻りました。心残りながら義父の病院に残っている家族を拾い帰宅して間もなく、伯父の死の連絡を受けました。1時間位の差で伯父の最期を看取ることができませんでした。住職の都合で、昨日が通夜、今日が告別式でした。いつか伯父夫婦を温泉にでも連れて行ってやりたいと思っていましたが、なかなか実行出来ず、悔やまれてなりません。

子どもの頃はよく伯父の家に遊びに行きました。伯父の家は山梨でも秘境中の秘境、当時は車では行けませんでした。吊り橋を渡り、山道を登り、沢を越えてやっと着きました。家も太い大黒柱がでんと座っている古い家でした。「エッセイ」のページの「大黒柱の段」や、「縁側の段」の写真は、伯父の家のものです。まさに、あの大黒柱のような伯父でした。

今はただ、伯父への感謝の気持ちでいっぱいです。その恩返しを直接伯父にすることは出来ませんでしたが、社会に自分のささやかな気持ちを表わす事が、伯父の恩に報いることにもなるものと思っています。世界中に繋がっているインターネットも天国には届かないでしょうか。せめて、今の私の気持ちを残しておくために、ここに記しました。
ありがとう伯父さん、安らかに。