ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月26日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第13回 最終回

35) 木炭時代: 日本は木炭の最大消費国で、戦時中には自動車も木炭で走りました。もとは木炭の使用は鋳物師といった金属を溶かす仕事や、鍛冶屋のように金属鍛造や加工する仕事に限られていましたが、明治時代の中頃全国的に炭焼きが始まりました。炭がまの技術はセンターのようなところで開発され広められました。その中心は栃木県、大分県などにありました。都会や貴族階級ではいろりに集まる必要はなかったので、冬は部屋ごとに火桶を持ち込むという習慣が始まりました。火ばし、火ばちの改良により普及しました。火ばちは陶器の進歩で堅く強くなりました。それでも最初の内はいろりのおきの火を分けるだけで、山で焼かれる木炭は、火鉢には使わなかった。コタツというものも火鉢と連動して進歩しました。やぐらに浅い火桶をつけた置きこたつ、行火(あんか)、番所こたつ、ネコなどは火鉢の改良から生まれました。

36) ふろとこんろ: 火鉢や土製の置きごたつが普及すると、どこの家でも炭の入用が増えてきました。木炭を使用しないで火種を用意するには、台所のかまどの改良があったからです。かまどはそれ自体が炭がまでした。この消し炭の需要が増大しました。それを火消壺にいれ、夏の間に冬用の燃料生産(けしこ)を心がけていました。火かき、火すくいは鉄板製で売られました。地方ではセンバ、台十(十能)と呼びました。一方家の構造も、戸障子・間仕切りで断熱性が改良され、炉の火の周りでないと生活できないことはなくなりました。どこへでも持ち運びができる、大小いろいろな火入れ、火鉢が出来ました。炉は冬だけのもので、越後では長火鉢のことを「夏炉」と呼んでいました。山形県では「ブショウ」、「ブシブロ」と呼びました。長火鉢は座ったままで仕事ができ、小物を入れておく引き出し机になりました。「フロ」は元は小型の炉、一種火鉢のようなものでしたが、片方に口を開け風通しが良いように作ってある「風炉」でした。浴場をふろというのは、周りを締め切ったサウナ(蒸し風呂 こうじむろ)のことです。茶の湯では火鉢を今でも「ふろ」と呼び、東北地方ではコンロの事を「ハヤフロ」と呼びました。木炭が重用されたのは、茶の湯のあの「ふろ 風炉」のころからです。

37) 町の燃料: 我国は水と燃料に恵まれた国でした。国土の60-70%は森林地です。仙台などではできだけ屋敷を広く取り端に大きな木を植えます。ところが都会では燃料を無視して住宅地が増えました。欧州では木炭を使いません。石炭や薪ストーブだけです。日本の火ばち・こたつ・行火の特徴はわら灰(熱灰)でもって炭の火(おきの火)を包むことです。改良されたコンロは炭の使用量をどんどん増やしました。わら灰の多くは米俵から作ります。古い米俵の縄は燃料だったのです。藁や薪をかまどで焚いていたころは都会は莫大な灰の生産地だったのです。灰は染物、あく抜き、土壌改良剤に使われます。都会から田舎へ灰が帰ってゆく流通が確立されていました。川越では灰市が立ちました。

38) 燃料の将来: この節はいわばエネルギー資源問題を扱います。昔の人は火に清いと汚いの感覚があり、「朝縄夕ふじ」という風に燃料を選択していました。炭家のちり芥を固めた「たどん」や「練炭」を戦後しばらく燃料屋で売っていました。火付きが悪いのでコンロで木くずで火をつけてから火ばちやコタツに移しました。火力は強くないので、豆などをぐつぐつ煮るために使いました。農家の風呂が普及したのは、このごみやごもくの再利用でした。津軽の十三潟では「サルケ」という泥炭を乾燥させ燃料にしました。亜炭や褐炭も東北では使用されています。石炭を炭・薪の代わりに使うことは案外古い時代から知っていました。関西では「ウニ」、「スクボ」、「ゴヘイダ」と呼ばれました。臭くて煙が多いことは今も同じ悩みです。今後、石炭・石油・ガス・電気の利用と関連製品の開発が進むことでしょう。

39) 火の文化: 人間と他の動物の違いを火の利用に求める考えがあります。食物を美味・衛生の観点で料理するため、赤道直下の地域でも火を使います。文化生活には火は欠かせません。

(完)


文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月17日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第12回

32) コンロになるまで: かまどのカマもへっついのヘも共に煮炊きものをする器のことです。例えば炉の中に3個の石を置いて鍋釜を乗せるとか、鉄輪を火の上におくだけの事です。かまどには煮炊き専用の実用以外の目的はありません。ですから旧式のかまどを改良する余地がありました。今ではガスコンロや電磁調理器まで改良さて来ました。竈の口の広さ、高さ、内側の湾曲などに工夫が凝らされ、さらに土のかまどに置くなべの丸みやつばの役割も改善されました。それには商人や職人がこの改良に参加したからです。小さなかまどをクドと呼びます。いろりのホド、かまどのクドというと古い呼び方ですが、クドもカマドもオヘッツイも改良されてコンロ・七輪に変化してきました。かまどは板の間の端に持って行き、土間で立って働けるようにしました。土間・内庭というものの最初の用途は、半分は夜の仕事のため、残りは煮炊きもの場を居間から引き離すためでしたが、土間も内庭も必要がなくなって、ただ履物を脱ぐところだけになり大幅に縮小されました。履物箱とドアーの間に人が立てればいいだけの窮屈な玄関になりはてたのです。

33) 漁樵問答: 薪取の樵(木こり)が、燃料として炭焼きを担うお話です。まず薪の流通機構について考えましょう。町や都会の燃料としての薪は買うものでした。従って漁業・農作物と同じように都市の需要に応じて町には木こりが多く出入りをしていました。農村は周囲に裏山を持ち、里山・、村山・垣内山・さんや(山野)があり、農民は入会地に薪やキノコを採ることが許され、山に入っていました。漁樵問答というのは中国のお話です。山の薪売りと川の猟師が町でばったり会って話をするという筋立てです。豊後の野津市の吉右衛門の柴売りを騙すという強欲な話とか、京都大原女、宇治の柴舟が有名です。都会は冬に入る前に大量の柴を必要とします。所有する山の中から早い瀬に乗せて柴を都市に送る専門の有力者の商売がありました。又は山奥の人の税を軽減して入用の木を税として下流に流させました。流す木には業者の木印をつけ、山子を使って流しました。今の木場のようです。都北ではこの流し木のことを春木と言います。春の雪解け時に流すからです。それを下流の木屋が受け取り町の流通業者に売るのです。目方で売買するので「かけ木」とも言います。

34) わらとわら灰: 川には増水時に持ち主不明の木が流れてきて、これを掘り起こして薪に使いました。埋め立て新田は、薪の手当てを全く考えていない役人の計画で行われました。また塩田で海水を煮詰めるために大量の松を使ったため海辺の山や岡は丸裸にされ土砂が流出しました。古い村里では屋敷を広くとって竹や木を茂らせ薪としました。川の曲がり角のような不用地に生える雑木を「カクマ」と称して薪にしました。つばがまの発明や炉の改良でわらでもご飯を炊けるようになると、わらで飯を煮ることができるようになりました。しかしわらの用途は多彩で、祭りの飾り物、はきもの、布団替わり、家畜の飼料、縄やかます、畳の芯床、藁半紙などに使いますので、わらが燃料として廻ってくる量は僅かでした。藁の手当てやわら灰の始末は女性の仕事でした。

(つづく)


文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月16日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第11回

28) 炉のかぎのいろいろ: 母親が年を取って忘れっぽくなると、いろりのカギに白い紙、布切れを結び付け、母親はいつも目をやって忘れないように心掛けたそうです。子供がまき銭を貰った時は穴あき銭を炉のかぎに括り付けてきました。親は旅僧や巡礼に上げたそうです。又炉のかぎには神社の火伏せ札を結えたりします。だから日ごろから鉤(かぎ)は大事にします。鉤の中ほどに木の魚や絵馬板などを結わえますが、長崎では「出鉤入魚」といって、カギは出口に向かい魚は奥へ向かうようにしなければなりません。この「木鯛木鮒」は炉の神様の信仰を表しているようです。鉤の高さを調節する「自在かぎ」が工夫され全国にさまざまな形のかぎが存在しますが、今や骨とう品として収集している人もいます。魚の形をした鉤のとめ木を「こざり」、「こざら」という地方があります。

29) かぎから鉄輪へ: 鉄を用いる前のかぎは山奥の村には残っています。ギザギザをつけた木だけでできた鉤は、適切な高さで引っ掛けるためです。自然の木の股を利用した鉤もあったでしょう。まだ山中の小屋では使われています。材料の木は小枝が多かった榎木(良い木)が用いられ、縄には丈夫なふじづるがほぼ永久に使われています。炉のある部屋には天井は張りませんが、火の上には炉とほぼ同じ大きさの火棚、ヒアマという棚を渡して、煤の掃除に便利にしました。東北では「火げた」、「えぞかぎ」と呼びました。油を燈火にして別置きにするようになれば、いろりの照明としての役割はなくなり、ものが煮える程度の炎の高さでよいことになり、煙を少なくするため炭火の役割が分かって来ました。十能、五徳のような鉄輪(カナワ)が発達しました。カナワをいろりに使う地方が増えて全国では多数派になっています。

30) おかまとへっつい: 歴史的に「いろり」よりも「へつい」と「かまど」のほうがずっと以前から存在していました。いろりの「ロ」は「火ドコ」、「火ジロ」を先祖とするようです。火を焚くという行為は一つでも、炉とかまどとは二つ別の者で、どちらもなくてはならなかった。炉の目的は暖房が主で、煮炊き、照明は付随です。したがって寒い時しかいらないのです。煮炊き専用には竈(かまど)があり、居間から離れた場所にあり、これを暖房や照明用と考える人はいません。数名の人の寄り合いの際の暖房には「火鉢」がありました。「へつい」と「かまど」は規模が大きくなると「かま屋」という別棟になりました。鉄釜に重い蓋をしてしっかりした飯を焚くかまどは、飯の量が多くなるほどおいしく炊けます。大勢の料理人や運び人が出入りします、食物の清潔さを保つためです。小規模の食物料理にはいろりの出番です。魚の炉端焼きも始まりました。室町時代以降お茶を煎じて飲む習慣が庶民に広がると、いつでも手軽に湯を沸かすいろりが便利です。また簡単な料理でもできるようになりました。

(つづく)


文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月15日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第10回

25) 下座と木じり: 亭主座(横座)に向き合った下の座には、畳もゴザもなく板敷です。すえ座といい、大きな家では下男下女の座る場所です。九州ではデカン座といいました。嫁座敷ともいいました。神棚や仏壇は亭主座の背後にありました。下座から薪の木をくべます。トグチとかタキモノ尻と、火の尻、ホダ尻ともいいます。焚き物を置く場を木じりといいます。炉端でい一番重要な座席は横座とかか座、すなわち主人夫婦の座です。婿と亭主の関係、嫁と姑の関係は微妙でかつ厳格であったと言います。「しゃくしを渡す」という主婦の職能と権限の委譲は座の移譲でもありました。

26) 火をたく楽しみ: 火を焚けば自ずと話が弾みます。一つ火を共にすることが家族を感じる場であったでしょう。ここで童歌やお伽噺や昔話の花が咲きます。言葉を覚える子供の教育の場でもあった。関西では松かさの事を「チチリ」、「チッチョロ」などと呼びました。石川では「ケンケラマツ」、山口では「コッケラ」といいました。児童用の燃料の言葉です。燃えやすい木を「バアバ木」、「バンバ」、ボヤ」、「モヤ」とも言いました。

27) 火正月: 1月14日の夜を火正月、花正月と言います。子供たちには楽しい晩です。節日には音のする(中国では爆竹ですが)ものを入れて燃やす儀式がありました。天竜川流域では「パチパチ」といってひのきの青葉を炉に投げ込みます。奈良では「パチコ」という馬酔木の木を燃やします。兵庫ではこの馬酔木を「ベリベリシバ」、広島では「バリバリシバ」といいます。東京では「トベラ」という木の葉を焚きます。大変臭いものです。節分には豆殻を焼きます。大みそかの晩には、大きな火を炉にくべます。14日の花正月には木を削って飾りものを作ります。小正月の前の晩、月占いといってくるみか小豆を月の数だけいろりの灰の上に並べて、その変化から天候や農作物の出来の吉凶を占うのです。餅を並べて焼いて占うのは子供たちの遊びで一家団欒の時を過ごしたものです。家が一つになって生きてゆくという姿は、炉がなくなってしまうと見られなくなった。

(つづく)


文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月14日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第9回

22) ホダと埋火: この「ヨドロ」という雑駁な燃料には硫黄のツケ木が便利でした。家の囲炉裏の火種だけは消さぬようにしておけば、簡単に火を焚くことができます。埋火という技術は女の知恵でした。それには炉の真ん中の「ホド」という部分の灰を柔らかくしてそこに太い木の燃えさしを埋め、上には温灰(ぬくばい)をかけておくのです。温灰には小さな粉炭が混じっています。さらに周辺の灰をたっぷりかけて火種を隠します。この大切な火の管理技術、夜中でも必要な時にすぐ火を起せ、危険性が少なく、皆が安心して寝て居られる技術を「火を留める」と言います。

23) 火を留める: 木曽や飛騨の山奥では、灰の代わりに多量のもみ殻をかけておく家があります。空気の流通がよく火種が消えないのですが、夜中ぶすぶすといぶって煙が出ます。夜着や綿布団が使われるようになると、囲炉裏の火の管理は重要です。薪の燃え残りに水をかけ土間の隅や壁の近くへ出します。残り火はあんかに入れたり、火消壺の中で消します。火留めに都合のいい木のことを「ホダ」といい、越後では「火休め木」、九州では「ヒケギ」、「トキ」といいます。ホダは堅い木の根部分を使います。ホダには樫、梅、椿が選ばれました。ホダは囲炉裏の四隅から真中で交差さて焚くのが基本でした。「ヨツギホダ」という言葉もあります。吉野の山村では「セチボタ」とも言います。北国では「年越しホダ」、「ツゴボタ」、「福ボタ」とも言いました。鹿児島では正月7日間焚き続けられる「ナンカントキ」という言葉もあります。七草雑炊、餅やき、小正月の小豆粥になくてはならない火正月でした。

24) 炉ばたの作法: 炉端の社会学です。炉が火鉢となり、コタツとなったころから、家というものの形が少しづつ改まり。とくに女性の職分と権限が異なってきました。炉は祝い事だけでなく、家そのものの組織の中心でした。家にはその機能上決まっている場所があります。常の日は中央の大きな中の間に家族は集まっており、客にもここで会いました。「居間 いま」がそれです。後には「茶の間」と呼ばれる頃になると,囲炉裏(いるい)ではなく長火鉢が置かれています。東北地方では「常居 じょうい」といい、九州では「中居 なかい」、「御前 ゴンゼン」と呼びました。この「イロリ」の四方には座るべき人の座が決まっています。囲炉裏から南面した土間に面して上がり口から最も奥に戸主の座があります。ここだけは畳一枚が敷かれた入ます。上座とは言わず横座と言いました。亭主席、親座敷、旦那イドと呼ぶ地方もあります。この亭主座の左右(細長い座)にはゴザが敷いてあって、たて座と言います。客座、南座、より座、よりつき、人座敷と呼ぶ地方もあります。入り婿の初見参も客座に座りました。主婦の座は亭主の横座に近く、女座、かか座、うば座、女房入れなど言い方は変わります。主婦の座はなべ座、ヤゼ、バンシ座(食事座)と言いました。

(つづく)