ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 「平家物語 」 高橋貞一校注 講談社文庫

2008年04月30日 | 書評
日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第33回

富士川
関東で頼朝謀反の情報がしきりに伝えられ、八月十七日源頼朝と舅北条四郎時政が蜂起し、石橋山で大庭三郎景親に敗れ、三浦大介らの反乱も伝えられる中、平家の追っ手が下された。大将軍には少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将は上総守忠清、総勢三万騎が九月十八日福原をたった。駿河国清見が関に着くころには駆武者は七万余騎となった。侍大将上総守忠清の策で富士川の前で軍を整えることになった。その頃頼朝殿鎌倉をたち駿河国浮島で勢揃えをすると二十万余騎であった。大将軍少将維盛が斉藤別当実盛から坂東武士の兵力を聞くと、強力の弓引きの精兵の剛勇は西国の兵の比ではないということで、すっかり怖気ついた大将は、九月二十四日の源平矢合わせの前夜、富士川の水鳥の飛び立つ羽音に驚いて全軍総退却となった。翌朝源氏の兵が川を渡るともぬけの殻であったという。賢い頼朝は深追いをせず、後方も心配なので鎌倉へ帰ったと云う。やはり兵站が伸びきっている平家のほうが不利である。大軍の輸送能力を考えて何処を戦場とするかは軍事の最重要事項である。平家も闘わずして不利を悟って兵を引いたのだから、賢明といえる。

五節沙汰
十一月八日平家の全軍は福原に戻った。中国なら将軍らは死刑と決まっているが、平家の詮議で誰も罪にしなかったばかりでなく、少将維盛は右近衛中将に上がり、重衡も左近衛中将に上がった。十三日内裏の造営が終わって主上が遷られた。大極殿がないので大礼はおこなわれず、新嘗会五節ばかりであった。


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