ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 斎藤 憲著 「ユークリッド『原論』とは何か」 (岩波科学ライブラリー2008年)

2016年01月18日 | 書評
ギリシャ数学史に輝く幾何学の公理主義の確立 第4回

序(その4)

「原論」は書かれた数学です。「原論」のテキストの独特なスタイルは今日の読者を混乱させることが多い。むろん当時の「原論」は私のような一般読者を想定して書かれているわけでなく、ごく狭い専門集団の、当時にしてとてつもなく優れた頭脳を対象としていることは事実であろう。だから一読しただけでは分からなくて当然ではあるが、その分かりにくさに特徴があり検討する価値があるのだ。「原論」独特のスタイルで問題となる事項を次に述べると、
①命題の最初に「言明」がある。これは命題を一般的な形で述べたものであるが、図の位置や記号を一切述べないので、少しでも命題が複雑になると、この言明は何を言っているのか判断しづらい。一つだけ例を挙げると、「接弦定理」という、円の接線と接点からできる内接3角形のなす角は、その内接3角形の円周角に等しいという定理であるが、「原論」の言明によると「もし円に何らかの直線が接し、また接点から円の中心へ何らかの直線が引かれてこの円を切るならば、その直線が接線に対してつくる2角は円の反対側の切片の中の2角に等しい」というもので、大変わかりにくくなっています。ところが言明のすぐ後に、「提示」、「特定」を読めばだいたい分かるようになっている。
②もう一つ不親切なのは、以前に証明した命題を使って証明をするが、その時どのような命題を使っているのか分からないことがある。命題に番号をつけて、「命題何番」によって明らかなように、という表現がない。
③次に第3番目の問題は、「原論」では命題の後に提示、提示で使った名前や記号が、その後の証明では名前の使い方が場当たりで一貫性がないため理解しずらい。A点がいつの間にかB点になっていたら面食らうのが当たり前である。同じ対象に複数の呼び方をするため、呼び方の一貫性ということにはユークリッドは全く無頓着である。また複数の密接に関係する命題間でも対応する点の名前が同じようにはなっていない。このスタイルは、後世紀のバッポスの「数学集成」という本でも、その命題のみに使う補助定理で付けた名前が本命題では違う名前になっているのです。これではせっかく理解した頭が混乱すること間違いなしです。
書かれた数学でひとつの命題では、一般に図の名前や点の記号は一貫して揃えるのが当たり前と考えがちなのですが、ユークリッド「原論」はそうではありません。プラトンの対話篇でも一つの概念を複数の言葉で言い換えることが頻繁に起こります。厳密な議論を展開するには、別のことを言っているのかと迷うことになります。プラトンの「メソン」でソクラテスは少年に対話で数学を教えました。そして目の前の砂に図形を描き、「この点は、この線は、この角は・・・」という風に指さしで説明しています。こうした場合呼び名の一貫性は問題になりません。当時の紙はパピルス紙で高価であり、講義や説明にパピルス紙を用いることはまれだったでしょう。ほとんどの人の知識は記憶と対話に頼っていたと考えられます。命題の「言明」は複雑な命題では解説なしに理解することは不可能だった。命題は一般的な表題程度の理解で記憶するものであったようだ。提示以降は現に説明に入るところで用いられる表現である。そもそも「原論」は書物として独習するために書かれたというより、「知識を持った人にそれを思い出させるために」存在したといえます。また命題番号も記さないのは、全体的な体系性を期すより、どこからでもアプローチできる点が望まれ、かつ「原論」が規範的なテキストであるという自覚がなかったといえる。今日でいう不特定多数むけの「数学書」ではなかった。しかしギリシャ数学は命題の形で記録され書かれたからこそ、現代にまで伝わったが、その書かれた命題の独特なスタイルから、当時もっぱら口頭で数学の議論が行われた様子が、窺い知れるというわけです。

(つづく)


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