ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月22日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第14回

3) 播磨国風土記 (その3)


■ 宍禾郡: (しさは 宍栗市) 伊和大神が国造りを終わって、谷や川、尾根の境界線を決められた。その時矢田の村で大きな鹿に出会った。「矢は鹿の舌に当たった」といった故に宍禾の鹿となずけ、その村を矢田の村という。
    □ 比治里: 孝徳天皇の時代、揖保郡を分割して宍禾郡を作った時、山部の比治が里親を任された。この人の名を取って比治の村と呼んだ。
        ● 宇波良村: 葦原志許乎命がこの地を支配した時、「この地は狭い、室の戸のようだ」といった故に表戸と呼んだ。
        ● 比良美村: 伊和大神の紐がこの地に落ちた故に褶の村と呼んだ。
        ● 川音村: 天日槍命この村に宿りておっしゃった。「川の音が高い」と、故に川音村と呼ぶ。
        ● 庭音村: 本の名を庭酒という。大神のご飯が乾燥してカビが生え酒に醸造して、庭酒に奉って宴をした故に庭酒の村と呼んだ。今の人は庭音の村と呼ぶ。
    □ 高家里: 天日鉾命がこの村の高いことは他の村を圧倒すると言われた故に高家里と呼ぶ。都太川の由来は誰も知らない。
    □ 柏野里: この野に柏が生えている故に柏野里と呼ぶ。
        ● 伊奈加川: 葦原志許乎命と天日鉾命が国を征服した時、川に嘶く馬がいた故に伊奈加川と呼ぶ。
        ● 土間村: 神の衣が地表に着いた故に土間村と呼ぶ。
        ● 敷草村: 草を敷いて神の御座とした故に敷草という。この村の南10里ばかりに澤があって、菅が生え笠の材料として用いた。ほかに檜、杉もあった。鉄を産し狼や熊が居た。栗、黄連、蔓も産した。
        ● 飯戸阜: 国を占領した時、此処で飯を炊いた。故に飯戸の阜と呼んだ。阜の形も竈に似ている。
    □ 安師里: 本の名を酒加の里といった。大神がここで食べ物を流し込んだ故に須加という。後に山守の里となずけた。里親の山部三馬の名前から山守となった。今安師里というのは、安師川からきている。安師比売の神に由来する。昔、伊和大神が安師比売の神に言い寄ったが拒否されたので、腹いせに川の上流に石を置いて別の方へ流れを変えた。故に今でもこの川の水量は少ない。
    □ 石作里: 本の名は伊和という。石作りの首らがこの村にいたので石作里と呼ぶ。
        ● 阿和賀山: 伊和大神の妹阿和賀比売命がこの山に居られた故に阿和賀山と呼ぶ。
        ● 伊加間川: 大神が征服された地の川に烏賊が居た故に烏賊間川と呼ぶ。諧謔譚のひとつ。
    □ 雲箇里: 大神の妻 許乃波奈佐久夜比売の容姿が麗しかったので宇留加と呼んだ。
        ● 波加村: 大神がこの土地を占領した時、先に天日鉾命が到着していた。大神これを怪しんで「度らぬ先に至った」といった故に波加の村と呼んだ。ここの地に着いたものは手を洗わないと雨が降るという伝承ができた。
    □ 御方里: 葦原志許乎命が天日鉾命と黒土の志尓嵩に至って、黑蔓三条を足に付けて投げたところ、葦原志許乎命の第1投は夜夫郡に、第2投はこの村に、第3投は但馬の気多郡に落ちた。天日鉾命が投げた蔓は三つとも但馬国に落ちた。故に天日鉾命は但馬国伊都志の地を占めた。誓いのしるしとして御杖をこの村に植えた故に御形と呼んだ。(これはライバル同士の土地占有の協定、軍事境界線の取り決めに相当する。しかしこの文からは葦原志許乎命が播磨の国のどこの地を占めたかは書いていない。)
        ● 大内川: 小内川、大内川、鉄を産する川は金内川と呼んだ。
        ● 伊和村: 本の名を神酒である。大神酒をこの村で醸造した故に神酒(みわ)と呼ぶ。於和(おわ)の村という説もある。大神、国造りが終った時、「於和とおがみき」といったからとする。


■ 神前郡: (神河町、朝来市) 伊和大神の子、建石敷命が山使いの村の神左記山に居ました。神が居られる故に神前郡と呼んだ。
    □ 埴岡里: 播磨国風土記最大の滑稽譚です。大汝命と小比古尼命が我慢比べの言い争いをしました。大汝命は「私は屎(糞)をしないで我慢をして行くことができる」といい、小比古尼命は「私は土の荷物をもって我慢して行ける」と言い張りました。数日たって大汝命はもう我慢できないと言って座して屎を出しました。小比古尼命も土の荷物を投げ出しました。故にここを埴岡と呼ぶ。また大汝命の糞が草にはねて衣に着いたので、波自賀の村と呼んだ。又生野という野は、昔この地の荒ぶる神が往来する人を殺した故に死野と呼んだが、品太天皇が悪い名だから生野と改めた。粟鹿川内という名は、但馬の阿相郡の粟鹿山から流れ来たからその名が付いた。川から湯が出たので、湯川と呼んだ。
    □ 川辺里: 川辺にあるから川辺の里、わかりやすい。勢賀というは、品太天皇、ここで狩りをして猪や鹿を追い詰めて殺した故に勢賀と呼んだ。星肆山というは、暗くなるまで狩りをした山の故である。
    □ 高岡里: この里に高い岡がある故に高岡と呼んだ。
    □ 多駝里: 品太天皇が巡行された時、従者であった佐伯部らの祖 阿我乃古がこの土地をほしいと言った。天皇は「直ぐに求めるものか」といった故に多駝と呼んだ。
        ● 邑日野: 阿遅須伎高日古尼命神は新次の社に居て、意保和知を刈り新田を開いた故に邑日野と呼ぶ。糠岡という地名は、伊和大神と天日鉾命が戦った場所で、米を舂いてその糠が積んで岡となったといういわれがある故に糠岡という。城牟礼山というは、品太天皇の時代百済から渡来した人らがその習俗のままに築いた城のことである。天日鉾命の戦が八千もあったという故に八千代野と呼ぶ。
    □ 蔭山里: 品太天皇の冠である御影がこの山に落ちた故に陰岡と名付けた。路の草を払う刃が鈍くて切れない故に磨布理の村という。冑岡というは、伊与都比古と宇知賀久牟豊富命が争ったとき、冑が庫の丘に落ちたからである。
    □ 的部里: 的(いくは)部らがこの村に居た故に的部里と呼ぶ。石坐の山というのは、この山の頂に石を戴く故に石坐の山という〈巨石信仰)。高野の社には玉依比売命が居られます。

■ 託賀郡: (西脇市、多可町) 昔 巨人がいていつも身を勾めて歩いたという。ここの地は高いので背を伸ばしてゆくことができるといった。故に託賀(たか)郡と呼んだ。その踏んだ足跡は沼になったという。これは諧謔譚です。
    □ 賀眉里: 川上にある村の故に賀眉(かみ)里と呼んだ。昔 明石郡大海里の人がやってきてこの山に住んだ。故に大海山という。次の話は父親判定の呪術です。道主日女命が、父親の分らない子を産んだ。父親判定の盟酒を造って諸々の神がいる場で、その子に酒をつがせたところ、天目一命に向い酒をたて奉った。そこでその父であることが分かったという。しかしその地はその後荒れた故に荒田村と呼んだ。
    □ 黒田里: 土が黒い故に黒田里と呼んだ。昔 宗形の大神興津嶋比売命が伊和大神序子を産むとき、この山に登って「産むべき時訖(お)ふ」といったが故に袁布山と呼んだ。
        ● 大羅野: この話は滑稽譚です。老夫と老女が鳥網を袁布山に張ったが、多くの鳥が入りすぎてその網を背負って逃げ去ったという。その網が落ちた野を大羅野と呼ぶ。
    □ 都麻里: 播磨刀売と丹波刀売が国境を接していたころ、播磨刀売がこの村にやってきて井戸の水を飲んで「有味し」といった故に都麻の里と呼んだ。
        ● 都太岐: 妻問婚が実は略奪(戦争)であったことを物語る話である。讃岐日子命が冰上刀売に求婚したが拒否された。なお強いて求めると比売が怒って、建石命を雇って戦争になった。建石命に敗れた讃岐日子命が逃げ帰る時「私はつたなかった(弱かった)」といった故に都太岐と呼ぶ。品太天皇がこの山で狩りをして鈴を落とした。土の掘り起こして探し当てた故に鈴堀山と呼ぶ。品太天皇の狩り犬が猪を追いかけ、天皇が「射よ」といった故に伊夜岡と呼ぶ。猪と闘って死んだ犬の墓がこの岡の西にある。朸(あふこ)を以て猪を担いだ故に阿富山と呼んだ。目前田は、猪のために目を割かれた犬のことをいう。阿多可野は、品太天皇がこの野に狩りをした時、猪が矢を負って阿多岐(いたく唸った)故に阿多可野という。
    □ 法太里: 讃岐日子命が建石命と闘った時、讃岐日子命は負けて匍匐して逃げた。故に匍田の里と呼んだ。甕坂というは、今後この境界に入るべからずとこの坂に冠を置いた。また昔丹波と播磨の国の境に大甕を埋めた由来の故に甕坂と呼ぶ。

■ 賀毛郡: (小野市、加西市、加東市、西脇市の南東部を含む) 品太天皇の時代、鴨の村で二つの鴨の栖で卵が生まれた故に賀毛の郡と呼んだ。
    □ 上鴨里・下鴨里: 名の由来は明らかである。後の世に上鴨里・下鴨里と二つの里に分けられた。品太天皇が巡行された時、この村で鴨が飛び立ち條布の木にとまった。天皇が「何の鳥だ」と問うと当麻の品遅部の君前たちは「川辺に住む鴨」だと答えた。天皇が射よと命令すると、一矢を放って二羽の鴨を射抜いたが、矢を負った鴨がそのまま時山の峰を飛び越えた。飛び越えた嶺を鴨坂と呼び、落ちたところを鴨谷と呼び、鳥を羹にして食べたところを煮坂と呼ぶ。下鴨の里に碓井谷、箕谷、酒屋谷という谷が3つある。大汝命に関係する命名である。播磨国風土記は滑稽譚が多い。鳥の名も知らないで狩りをする人もいないだろう。
    □ 條布里: この村に井戸があり、女が水をくむとき井戸の吸い込まれた故に條布の里と呼ぶ。品太天皇が狩りに出かけると、鹿が自分の舌を咋って死んだ(自殺?)故に鹿咋山という。諧謔譚だろう。品太天皇の時代、品遅(ほむち)部らの遠い先祖がこの地を賜った故に品遅部村という。
    □ 三重里: (加西市) 昔 女が筍を布で包んで食べたところ、体が重くなって立ち上がれなくなったという故によって、三重の里と呼んだ。
    □ 楢原里: 柞(ははそ なら)の子がこの村に生えていた故に柞原(楢原)の里と呼んだ。
        ● 伎須美野: 品太天皇の時代、大伴連らがこの地を所望した時、国造黒田別を呼んで国状を問うた。黒田別は「縫える衣を櫃の底に蔵(き)するようだ」と答えた故に伎須美野と呼んだ。
         ● 糠岡: 大汝命、稲を下鴨村で舂かせたが、散った糠がこの岡に積った故に糠岡と呼んだ。
        ● 玉野村: ちょっと複雑な求婚譚です。意渓、哀渓の二人の皇子が美嚢郡の志深里の高宮に居られた時、山部小楯を遣わして国造許麻の女根日女命に求婚した。根日女はすでに応諾したのだが、二人の皇子は拒否して逢わなかった。そして日が過ぎて根日女は年老いて亡くなった。皇子はいたく悲しんで、小楯を遣っ玉をもって女の墓を作った故に玉丘となずけ、その村を玉野と呼んだ。
    □ 起勢里: 巨勢部らがこの村に居た故に起勢里と呼ぶ。
        ● 臭江: 品太天皇の時代、播磨国の田村君が多くの部族を従えて反乱を起こしたので、天皇は部族をこの村に追い詰めて皆殺しにした故に臭江と呼ぶ。血が黒く流れた川を黒川という。
    □ 山田里: 山の近くにあるので山田里と呼んだ。分かりやすい。
        ● 猪飼野: 仁徳天皇の時代、日向の肥人が天照大神の船に乗って、猪を飼うべきところを求めてこの地を賜った故に猪飼野と呼ぶ。
    □ 端鹿里: 昔、神が村々に木実を分配したが、この村で実が無くなった。「間(はし)にあるかも」と神が言った故に端鹿と呼んだ。今もこの地の山の木には実がならないという。
    □ 穂積里: 本の名を塩野いう。塩水が出るためである。穂積というのは穂積臣らの一族がこの村に住んだからである。
        ● 小目野: 品太天皇が巡行された時、四方を見て「そこに見えるのは海か川か」と問うた。侍従は「これは霧です」と答えた。天皇は「大体はみえるが、細かいところがね」とごまかした故に小目野と呼んだ。ここに井戸を掘って佐々の御井といった。歌2首を添えた滑稽譚である。
    □ 雲潤里: 丹津日子の神が、法太の里から雲潤の方へ越えようとしたが、この地の太水の神が拒否していった。「宍のちで畑を作っている。河の水はいらない」 そこで丹津日子の神は川を掘ることが嫌なだけでこう言っているのだと言った故に、倦み(雲潤の里と呼んだ。
    □ 河内里: この里の苗は草を敷かないで苗を下す。住吉の大神がこの村で食をした時従者らが刈った草をまき散らして座ったので、地のものが大神に訴えた。大神は「こちらの稲は必ずしも草を敷かないでも生育している」といった。今でもその村の田は草を敷かずに苗代を作る。
    □ 川合里: 端鹿の川底と鴨川が合流する村である。故に川合の里と呼ぶ。
        ● 腹辟沼: 花浪神の妻淡海神が夫を追ってここに到り、夫を恨んで腹を割きこの沼に沈んだ。故に腹辟沼と呼ぶ。この沼の鮒には今も五臓はない。

■ 美嚢郡: (三木市) 大兄伊射報和気命(履中天皇)が国境を定めるため、志深里の許曽の社に至った時、「この地は水流れ甚美わしき」といった故に美嚢(みなぎ)郡と呼んだ。
    □ 志深里: 伊射報和気命がこの井で食事をした時、信深貝(しじみ)が飯箱の縁に遊びに来た。天皇は「この貝は阿波国和那散で食べた貝である」といった故に志深里と呼んだ。そして於渓(仁賢天皇)、哀渓(顕宗天皇)の難事、臥薪嘗胆物語が語られる。彼らの父市辺忍歯王が大長谷王(雄略天皇)によって近江国摧綿野において殺されたとき、二皇子は日下部連意美に率られて播磨の国に難を逃れた。この村の岩室の隠れ住んだ。意美は自らの罪を悟って、馬を追い払い、持てる物は悉く焼き払って首をつって自殺した。二人の皇子はあちこちの隠れ放浪し、志深の首伊等尾の家の使役人として身を隠した。伊等尾の家での宴の歌2首が添えられている。播磨国山門の領に派遣された山部連少楯が事情を知って語った。「あなた方の母、手白髪命は食事もせず寝ることもせず泣いています」 皇子らは倭に登って母に逢うことができた。そして播磨の国に帰って宮を作った。高野宮、少野宮、川村宮、池野宮、屯倉宮がある。
    □ 高野里: 高野里の祝田の社には、玉帯志比古大稲女、玉帯志比売豊稲女の二柱。
    □ 吉川里: 吉川の大刀自の神がいます。
    □ 高野里・枚野里: 読んで字の通り。

(つづく)
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猪飼野 (しらぬひ)
2017-11-20 12:25:35
初めてコメントさせていただきます。
お尋ねしたいのですが、猪飼野のところに、「日向の肥人が天照大神の船に乗って、猪を飼うべきところを求めて…」とあります。
しかし、私のkindle版角川ソフィアの『風土記』には「仁徳天皇の世に、日向の肥人である朝戸君が天照大神のいらっしゃる船に、猪を持って参上して献上し…」とあります。
訳のニュアンスがかなり異なるのですが、ご掲載された訳は、どちらのものでしょうか?
以前から、この部分の解釈に悩んでおりました。
お忙しい中申し訳ございませんが、ご教示いただけましたら幸いです。
播磨国風土記 猪飼野 (ごまめ)
2017-11-20 17:39:45
「猪を持ち来たって」が抜けていましたが、一匹は天皇に献上したでしょうが文の趣旨は、やはり猪を飼う場所を後追いで承認してもらう意味で猪飼野の名の由来としたということです。同じ角川ソフィア文庫ですので中村啓信監修ですので違いがあるわけはありません。
船は何隻あるのでしょう (しらぬひ)
2017-11-20 18:52:21
お忙しい所お返事ありがとうございます。
「天照大神の船に乗って」という訳が類のないもののように感じました。
植垣版(小学館)風土記もほぼ同じような訳で、「天照大神のいらっしゃる舟に、猪を持参して来て献上して」とあるため、「天照大神の舟」と「肥人の舟(或いは陸上輸送)」の2隻の舟があると解釈できます(多分?)。
しかし、ごまめ様の書かれている訳でしたら、「天照大神の船に肥人も猪も一緒に乗って熊本から播磨にやって来」て、「(仁徳天皇か誰か偉い人)に猪を献上した」ように受け取れます。
原文を見れば、どちらともとれるように思いました。
また、猪を大量輸送できる大型船が、仁徳時代あったのかなど、色々な角度で悩んでおりました。
お騒がせして申し訳ありません。

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