ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「日本の祭」 角川ソフィア文庫

2018年04月22日 | 書評
太平洋戦争の只中、日本の神の発見によって柳田民俗学を創始した記念すべき著作 第8回

5) 「供物と神主」

この章は日本の祭りの特徴の④ 神供(御饌供進)の内容です。日本の祭は必ず神に食物を御進め申すことである。西日本では「御散供」と称して洗い米を白紙に包んで持って行き、供えるかまたは打ち撒きにする。関東・東北では餅を持参し供える。奥羽の山では藁に餅を包んで木にかけ、カラスなどの鳥に食べさせる「ミサキドン祭」と呼ぶ。山の神の餅を鳥に食べさせることは、神が食べた証拠だする「トリバミの神事」、「オトグイの祭り」と呼ぶ。この供物の餅の半分を水に漬けこれを水餅といい、凍らせて干し6月になって食べると力になると信じられている。これを氷餅と呼ぶ。子供らしい年中行事の一つになっている。「カァカァ祭」とも呼ばれ少年の行事である。静岡県の村では「オコンコンサマ」という狐の真似をする子供行事であった。越後では山の神である「オシャガミ」と呼ぶ。子供を神に代わって饗応を受けさせる趣旨である。中国や朝鮮にも古くからある風習であった。能登半島の農村では田の神様への御礼のため「アエノコト」(饗の事)という神事を行う。旧家の本家では田の神様に風呂に入ってもらい、そのあと食事をしてもらう真似の神事である。家の年中行事である神祭では、家のものが食べるご馳走とおなじものの「初穂」を上げる。神様と同じものを神前に列座して共に戴くのであり、日常とは違う御馳走を食べる節日の供物「晴れの膳」である。歳神様歳徳様または正月様ともいう神を歳棚に祀って初穂を捧げる。正月年男が主催するこの行事を「神やしない」と呼ぶ。正月の門松を御松様と言い、本来、神の御座所であった。冬の始めまたは年の暮れに行われる「恵比須講」は商家の楽しみで、正座に神を祀る。北陸や東北では「田の神・作の神」と伝えていることを、九州や四国の村では「大黒様」、中部では「恵比寿大黒」、関東では「恵比寿様」と呼んでいる。食べ物とお酒を神様に供えるのであるが、この日のお供え物は「恵比寿膳」と言って、折敷の板の木目を縦に据える慣習がある。播州では「ソウバ膳」と呼び、神様と人が食べる物や器は同じものであることが恵比須講の作法である。本来神様と同時にたべる「直会」が、最近は神職が神事が終わってから下げて別の場所で食べるような意味になってきた。飯を神供として供える場合には、この「相饗の思想」が如実である。五斗十斗という飯を大釜で炊いて、神さまと同じ飯を戴くのである。茶碗の飯を円錐形に高く盛り上げて先を尖らせる盛り方を九州・近畿では「御清盛り」、「オキョウサマ」と呼ぶ。神様には藁を椀に巻いた「鉢巻結び」で差し上げる。肥前の天川村では「オキョウモウシ」は旧暦11月丑の日の収穫祭の主要行事であった。同じ飯を参拝者に分け与える習わしであって、京都や東京では「御供」といって菓子などを参拝者に付与した。魚類は神にはそのままの形で供し、後で卸して参拝者に与えた。それから魚の名のついた祭が全国にある。丹波篠山の「鱧切り祭」、美濃の「鰻祭」、近畿では「エソ祭」、「棒鱈祭」、「カスベ祭」、「鯰祭」などがある。野菜の名が付いた祭では、諏訪御座石神社の「独活祭」、甲州羽根子の「蒟蒻祭」、長門吉部八幡の「芋煮神事」がある。神様に魚や野菜をそのままお供えすることは、間違いなく「相饗思想」(直会)の衰微につながった。多くの旧社には御炊屋御水屋、御供舎という建物がある。料理施設がない場合、指定された家から御膳を運ぶときは頭の上に膳を乗せて運ぶのである。飯ではなくて米だけは生のままで神に出す習わしがあり、「花米」、「御散供(オサング)」と呼んだ。神様の供物が人間の食べ物と別れてきた経緯には、新しい時代の趣向や技術が絡んでいる。「相饗思想」(直会)の衰微がそれであるが、神職という神供調達係りの管理と配当がそれを促進したらしい。神事を書いた文章がなかったことも伝統や慣習の保持ができなかった理由である。現在の神社制度は中央管理制度であって、外から来た神職(巡回神職)は地方の実情に従わざるを得なかった。神職としての「ホウリ」、「タユウ」という職は内容はさまざまだが、伊豆七島ではホウリは名主を兼ねた世襲で重々しい職であった。鹿児島でもホウリは家筋と年功によってその地位は相当に高く、族長の神を祀る権能ある者であったようだ。職業というより地位というべきであろうか。ところが南九州で「ホイ、ホッドン」というのは祭の雇われ人で軽い地位である。遠江天竜川上流では「ホウジ、ホウジン」は更に地位は低い者である。「タユウ 太夫」という名前もホウリと同じような意味を持つもので地位はさまざまである。タユウの古語は「モウチギミ」侍者という。中国地方では「タクダユウ」、土佐では「イチダユウ」と呼ぶ。関東では「舞太夫」という者は御社に専属する神楽の社人・伎芸者のことで身分は低かった。村のホウリつまり頭屋は大きな名誉職で、旧家の特権でもあったが、義務も多かった。神主や巫女という名称も地方によって内容がさまざまである。神主は神職と思っていない土地は多い。神職は祭事の司会であり管理者であるが、神主はただ本百姓の重役だと心得ているのだ。神職には①その土地の住民、氏子から出た神職、②外から入ってきた神職がある。第1の名門の宗家で、家と神社との関係が不可分で、時として神の血筋を引いた直系の子孫と信じている者もいる。こういう人が神主であり神職である。その変形が持ち回り制の頭屋である。第2の外部からの神職の起りは新しい。大和朝廷ができてから大社(三輪、鹿嶋、八幡など)を託宣を持って全国に移動されたためにできた神職である。祭神と自分の家との縁故では外戚関係の家である。この外来神職家には、鈴木・榎本・小野・横山・長谷川・五十嵐という名の家がある。官府の庇護があるか、無ければ農耕を行う土着化によって家を維持しなければならない。別に漂泊の移動をおこなう神職もある。神祭の管理者が専業にならなければ修めることができないような学問「神道」が中世から急に盛んになってきた。吉田神道、吉川惟忠、吉見幸和の神道家が輩出したためである。儀式が複雑化して、祭の任務が重すぎ農業経営の傍らでは実行できなくなった。頭屋交代制や代願代参代垢離の風習が盛んになり専業化した祭の執行役の需要が増したのはこのためである。

(つづく)


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