ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月19日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第7回

12) 戯画
駒場の伝統的因習は寮だけでなく教場でもその「伝統」に忠実であった。教師は自ら教える価値があることを教えて、そのための予備知識は学生が何とか工夫するだろうとしていた。物理学の教師は学生の数学的素養は考慮しなかった。教場での質問は禁じられていた。質問されると授業がはかどらないからである。授業に出る出ないは学生の「自由」であって、「代返」も黙認していたが、試験では半分以上に及第点を与えなかった。詩人でドイツ語の教師片山教授は教科書にベルグソンの形而上学」ドイツ語訳を用いた。ここで片山教授の思い出、国文学の五味教授の思い出が語られるが省略する。駒場での3年間は寮や教檀の事だけでなく、歌舞伎座や築地小劇場に通ったことも懐かしく思い出される。歌舞伎では自分にはない権威に反抗する気配を潜めた遊人や侠客、盗人に惹かれた。築地では「新劇」のロシア文学「どん底」、「桜の園」など大正期を風靡した劇を見た。築地小劇場にも軍国主義の波が押し寄せていたが、反時代的な精神において客と舞台が一体化した空気が感じられた。私が西洋で発見したのは、絵画と彫刻、建築であった。その頃京都の庭園など日本の美術は何も見ていなかった。当時の日本人の油絵、建築物は見るべきものがなかったというべきだろう。思えば両大戦間の東京は不思議な空間であった。たくさんの西洋文化・文芸・美術が氾濫し、日本文化を忘れさせるには十分で、西洋を理解するには不十分であった。そういいう自分を、一時代の文化の戯画として、私自身がはっきり意識していたわけではない。

13) 高原牧歌
中学校の最期の年の夏を信州追分村で過ごして以来、毎年7月にはこの村に秘書がてら勉強合宿に来ている。追分村は中山道から浅間に向かって少し入った林の中にある。展望は良かったが、ガス、水道はなかった。まるでキャンプ場だった。夏休みの大部分を妹と私で過ごした。妹はこの頃雙葉女学校を卒業し、家に入って母の手伝いをしていた。妹は東京の家の中では、父母の間を取り持ち明るくする存在となって、判断は決して愚かではなく人の気持ちに敏感であった。母は自分の気持ちにも敏感で信じることに従って争いも辞さなかったので、父との間に耐えず意見の食い違いがあったが、妹の存在で険悪にならなかった。良家の子女の慣習を破らず、妹には男友達がなく、私には女友達がなかった。8月の初めから東京から避暑客が集まり、「油屋」や「本陣」に住んだ。気の利いた寺では境内に長屋を作り学生宿泊場にした。東大英文科の中野好夫助教授も来られた。信濃追分駅の近くに、立憲政治家尾崎咢堂の長男尾崎行輝氏が八角堂の家を建て、東京に出ることもなく隠者のように家族連れで生活していた。飛行士をして発明に取り組みテニスにも凝っていた。追分で生活していた私は時折小諸や軽井沢に出かけたが、そこは東京の代用品であった。8月も末になると追分村は潮が引くように人がいなくなり、私の学校が始まる9月半ばころはもう秋だった。追分村の夏休みは10年以上も続いて戦後に及んだ。

(つづく)


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