ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「日本の祭」 角川ソフィア文庫

2018年04月18日 | 書評
太平洋戦争の只中、日本の神の発見によって柳田民俗学を創始した記念すべき著作 第4回

1) 「祭から祭礼へ」

日本では「祭」という行事を介してでないと、国の固有信仰の古い形とその変化を窺い知ることはできない。その理由は文書(経典)を持たないからである。行為と感覚だけをもって伝達されてきたのである。以前は専門の神職や教団組織も存在しなかった。1年に1回程度行われる祭という飛び石を踏んで進むしかない「神ながらの道」であった。祭と祭礼とは実は同じでない。村の人が集まるだけで祭礼がない祭もある。祭礼は有名な御社の大きなお祭に限って行われる。大祭=祭礼と理解されるのは、昔は朝家官府・領主貴族がお祭りされるから「大祭」、そうでないのが「祭」と呼んでいたらしい。別々の起源を持つようである。「マツリ」が古語日本語であるなら、仏教のような定まった様式で行われたのではなく、バラバラの統一がない様式で行われたと考えられる。祭の様式は社ごとに古例があって、変遷の段階が見られる。小社の素朴な様式を見て、大社の趣向を凝らした祭礼を見ると、前者に古い形が察せられる。松明の火から提灯に至るまでさまざまな変遷があったのである。幟(のぼり)は、一反の布に竿を通し、五穀成就などの祈願の字を大きく書いたもの。しかしこの幟が盛んになるのは最近のことで、絵巻や中世の記録には見えない。つまり趣旨は分かっても、外に現れる形は大きな変化を示すのである。又祭礼の一般的な特徴である御輿の渡御には、京都では中世以来この行列を風流と呼んで意匠を凝らした。風流とは思いつきのことで、他にないことを求めたのである。神輿の渡御があるために、祭が祭礼になったともいえる。しかし神々の降臨、すなわち神が祭場にお降りになることは古くからの考えである。神様を祭場にお迎えするには、乗り物として神馬がもう少し前からあり、御輿は中世より比叡山日吉神社の神輿があり、春日の神木手輿にお載せした。飾り御輿は京の祇園が最初であった。日本の祭りの重要な変わり目は、見物という群れの発生からである。信仰を共にしない人々が都の行事として華やかさを求めたことである、平安朝の頃と考えられる。葵祭も本来は朝廷の使者が賀茂神社に立つことであったが、これが観光化してあのような華やかな行列となった。農民はいつもこの「見られる祭」を美しくしようとして、神様と祖先の祭りを新たな装いで変化させ、様々な行事をおこなった。神様を祭場にお迎えする儀式は複雑で微妙な変化をしている。神殿の鏡を神輿にお移しするとか、神馬の鞍に御幣を立て神霊の依座(ヨリマシ)とした。御幣の代わりに生きた人間を使うこともあった。熊野新宮では馬上の人形になっている。この神の御移り場面は最も微妙な場面として人の目から遮断するため、灯の無い暗闇で行ったりした。日本人の一日の始まりが午後6時ごろであったという説がある。つまり祭はこの夕がたから翌朝までの一夜が祭りの大切な部分であったという。この夜分を主にした祭は多い。宮中の御祭儀にも、大嘗祭、新嘗祭、御神楽がそうであった。官吏は夕の御饌、朝の御饌を賜って退出する。古い祭の式は一般に、この夕朝二度の供餞の続きであって、夜を徹して奉仕するのが日本祭である。御夜籠り、お通夜という言葉となっている。「マツル」の語源は「マツロウ」であるという説が有力である。「御側にいる」で「奉仕」ともいえる。遠くから敬意を表するというだけではない。参拝の「参る」は「随従」の意味である。「お詣り」のように遠くで頭を下げる意味では不十分である。つまりは「参る」ということは「籠る」という事も同じで、ある一つの祭典に参加することであった。神前に立礼することは古来なかった。膝をついて扇を前に広げて拝むのである。この参り方が急にぞんざいになった。幟にしても大きな木綿布に字を書いて遠くからでも見える様に高い竿に付けて風に棚引かせることは、標示したいという念慮の表れである。目印だから夜になると火を灯したいということから、大松明を引き起こす儀式があったり、投げ松明の競技(運動会の玉入れと同じ)、燈籠、提灯、高灯籠、御燈明、蝋燭など、技術の進歩にあわせて様々な工夫がなされた。祭の時期であるが、先の祭りの五要素の祭日に書いたので省略する。

(つづく)


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