ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「火の昔」 (角川ソフィア文庫2013年新版)

2018年03月17日 | 書評
火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る 第12回

32) コンロになるまで: かまどのカマもへっついのヘも共に煮炊きものをする器のことです。例えば炉の中に3個の石を置いて鍋釜を乗せるとか、鉄輪を火の上におくだけの事です。かまどには煮炊き専用の実用以外の目的はありません。ですから旧式のかまどを改良する余地がありました。今ではガスコンロや電磁調理器まで改良さて来ました。竈の口の広さ、高さ、内側の湾曲などに工夫が凝らされ、さらに土のかまどに置くなべの丸みやつばの役割も改善されました。それには商人や職人がこの改良に参加したからです。小さなかまどをクドと呼びます。いろりのホド、かまどのクドというと古い呼び方ですが、クドもカマドもオヘッツイも改良されてコンロ・七輪に変化してきました。かまどは板の間の端に持って行き、土間で立って働けるようにしました。土間・内庭というものの最初の用途は、半分は夜の仕事のため、残りは煮炊きもの場を居間から引き離すためでしたが、土間も内庭も必要がなくなって、ただ履物を脱ぐところだけになり大幅に縮小されました。履物箱とドアーの間に人が立てればいいだけの窮屈な玄関になりはてたのです。

33) 漁樵問答: 薪取の樵(木こり)が、燃料として炭焼きを担うお話です。まず薪の流通機構について考えましょう。町や都会の燃料としての薪は買うものでした。従って漁業・農作物と同じように都市の需要に応じて町には木こりが多く出入りをしていました。農村は周囲に裏山を持ち、里山・、村山・垣内山・さんや(山野)があり、農民は入会地に薪やキノコを採ることが許され、山に入っていました。漁樵問答というのは中国のお話です。山の薪売りと川の猟師が町でばったり会って話をするという筋立てです。豊後の野津市の吉右衛門の柴売りを騙すという強欲な話とか、京都大原女、宇治の柴舟が有名です。都会は冬に入る前に大量の柴を必要とします。所有する山の中から早い瀬に乗せて柴を都市に送る専門の有力者の商売がありました。又は山奥の人の税を軽減して入用の木を税として下流に流させました。流す木には業者の木印をつけ、山子を使って流しました。今の木場のようです。都北ではこの流し木のことを春木と言います。春の雪解け時に流すからです。それを下流の木屋が受け取り町の流通業者に売るのです。目方で売買するので「かけ木」とも言います。

34) わらとわら灰: 川には増水時に持ち主不明の木が流れてきて、これを掘り起こして薪に使いました。埋め立て新田は、薪の手当てを全く考えていない役人の計画で行われました。また塩田で海水を煮詰めるために大量の松を使ったため海辺の山や岡は丸裸にされ土砂が流出しました。古い村里では屋敷を広くとって竹や木を茂らせ薪としました。川の曲がり角のような不用地に生える雑木を「カクマ」と称して薪にしました。つばがまの発明や炉の改良でわらでもご飯を炊けるようになると、わらで飯を煮ることができるようになりました。しかしわらの用途は多彩で、祭りの飾り物、はきもの、布団替わり、家畜の飼料、縄やかます、畳の芯床、藁半紙などに使いますので、わらが燃料として廻ってくる量は僅かでした。藁の手当てやわら灰の始末は女性の仕事でした。

(つづく)



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