ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月18日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー 第11回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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13) 「夢は哲学の立て直し」 竹田青嗣 男 1947年生まれ
大阪市城東区鶴見で7人兄弟の末っ子として生まれた。親、兄弟は全員日本語で生活していました。小学校、中学校と公立学校に通った。親父は屑鉄業、母は小さな旅館を営んでいましたが、1953年朝鮮戦争後貯えができて堂山町に家を建てた。しかし景気が傾き借金が返せなくなって、一家は東京と大阪に離散した。父は小さな鉄工所を始めて生活は少し安定して、高校は府立豊中高校に通った。クラシック音楽に目覚め、音楽番組ディレクターに憧れた。1966年早稲田大学政経学部に入学し、サークルは放送研究会に入った。大学時代の体験の中心は左翼学生運動でした。心情左派(ノンセクト・ラジカル)ですが、内ゲバをするわけではなく、マルクス・レーニンを読んでいただけの左翼です。同時に民族問題にもぶつかりました。連合赤軍事件で左翼運動に幻滅を覚え、同時に「民族性もなく、日本人でもない人間の生き方」に悩んで、自律神経失調症で病院に通う生活が20代終わりまで続いた。1971年に早稲田大学を卒業して、長くアルバイト生活をしていた。フッサールの「現象学の理念」に出会い、近代哲学の認識論に深入りしていった。論文「在日朝鮮人二世ー帰属への反乱」が和光大学の注目するところとなり、フリーターの傍ら、週1回で12年間和光大学の「民族差別論」非常勤講師となりました。「批評研究会」にも参加し、加藤典洋さん、小坂修平さんらと知り合い、「ヘーゲル研究会」にも参加した。1983年「在日という根拠」、1986年「陽水の快楽ー井上陽水論」を著した。1992年明治学院大学に呼ばれて国際学部の教授となった。なだいなださんの「人間論」を引き継いだ。問われれば、祖国は日本、国籍は韓国、民族は朝鮮民族と答えるでしょう。これが結論です。現代社会は、近代社会に固有のメリットとデメリットをそのまま抱えています。近代社会は、民主主義的な政治形態と、自由市場、つまり資本主義という経済システムが一つになって人間の自由を実現しました。しかし資本主義は基本的に富の格差を拡大してゆくシステムです。そこからさまざまな矛盾が出て来ます。その回答はまだない。西欧社会ではキリスト教に変わる根本的なアイデアが出てこなかったためにニヒリズムやシニズムが現れた。社会的ニヒリズムが蔓延する社会です。しかし現代は哲学の分は悪い。「反哲学」の時代です。2005年から早稲田大学に移ったが、哲学を立て直すのが私の願いです。

14) 「福島の同胞と共に生き、3・11後に抱く思い」 陸双卓 1947年生まれ
父は故国では食えないので1936年19歳で渡日した。福島県白河郡西郷の開拓地で農業や土木作業員として働いた。母は日本人です。結婚を反対され実家には一度も帰ってないそうです。1967年18歳の時から朝鮮総連関東学院で朝鮮語や歴史を学び、総連の専従活動家としてスタートした。このでは自分を日本人だとして、ほかの朝鮮人を蔑視する民族虚無主義になっていた。郡山の総連本部に入り、朝青の専従となっって福島県内を巡りました。1980年に北朝鮮共和国を初めて訪問して金日成元帥に会い感激したという。その後、朝青福島県本部副委員長、総連支部委員長、総連本部専従、福島県初等中学校教育会会長、同胞結婚相談所所長など、福島県下で総連の役職を歴任、2009年に退職した。福島県での朝鮮人強制労働とその犠牲者の歴史を調べた。磐城炭鉱が一番多くて、猪苗代湖沼の倉発電所、昭和電工などでの遺骨収集と慰霊祭などを執り行った。2011年東日本大震災と東電福島第1原発事故により、福島県の朝鮮学校は放射能のせいで生徒数が激減した。

(つづく)



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