ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月29日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう 第7回

2) 教育委員会の歴史 (その2)

 文部省の教育統制に向けての施策が次々と打たれてゆく。「教育員会月報」が意思伝達手段として使われ、「学習指導要綱」によって教育の平準化と指導の要をなし、「地方教育員会との協議会」を各層で精力的に設置し定例的に会合をもって、文部省の意思伝達と意思統一を図った。とりわけ文部省が重視したのは都道府県と5大都市の教育長協議会であった。これには文部大臣・事務次官が出席し、教育長を通じて全国の教育委員会への浸透をはかった。こうした教育長や教育委員会の協議会だけでなく、教育委員会事務局との協議会も分野別に多数作られ、担当の文部省官僚が出席し、施設・指導主事・給食・人事給与などに関して全国一律の方針が浸透した。1952年10月、市町村への教育委員会の全面設置と教育委員の直接公選が実施された。都道府県の教育委員の現職教員と教員経験者の占める割合は1952年において51%であった。しかも教育委員を支えたのが教育の民主化をとなえる教職員組合であった。教育委員会の全市町村設置は、文部省にとっても教職員組合にとっても組織的な負担が大きかったが、文部省はそれこそ全国統制を成し遂げるための試金石としてこれを積極的に活用した。保守政治家にとって目の上のたん瘤のような強い各県の教職員組合にたいして、処遇の改善をつうじて教員への影響力拡大をはかった。1954年吉田内閣は「教育公務員特例法改正」と「教育の政治的中立の確保法」のいわゆる教育2法を成立させた。これにより教員の政治活動は公務員と同様に禁止され罰則を科した。こうして戦後の教育の民主改革は形骸化した。このような背景の下で、1956年6月教育委員会法を廃止し地方教育行政法が公布された。教育委員会制度が当時の自治体財政にとって負担であったこと、教育委員会に影響力を持つ日教組への批判キャンペーンが展開されたことで、文部省は「逆コース」の時流に乗って地方教育行政への関与を強化する絶好の機会をとらえたようだ。当時の政界では、教育現場から左派を排除する「政治的中立性」と、教育委員会の直接公選制を廃止し首長が議会の同意を得て任命する制度に改めることが最大の争点となった。文部大臣の諮問機関である「教育委員会制度協議会」は教育委員の選任方法に議論があつまり、1956年衆参両院の文教委員会公聴会では、法案の反民主制と集権制に批判が集中した。教育委員の首長による任命制、教育長の任命に関する上級機関の事前承認制と特徴とする地方教育行政法に基づく体制は、自治体教育行政に対する中央統制の仕組みを構築することが目的であった。地方教育行政法は、文部省から都道府県教育委員会ー市町村教育委員会にいたる垂直下降型の教育行政システムを制度化した。この体制は2000年の地方分権改革まで続いた。次にこの垂直型教育行政システムの実態をみてゆこう。

(つづく)


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