ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 柳田国男 「日本の祭」 角川ソフィア文庫

2018年04月19日 | 書評
太平洋戦争の只中、日本の神の発見によって柳田民俗学を創始した記念すべき著作 第5回

2) 「祭場の標示」

祭には必ず木を立てること、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであると、先の祭の五要素の① 神地(祭場)で述べた。そしてその様式は際限もなく変化している。すくなくとも変化の広汎な事を認める必要がある。幟にしろ御幣にしろ、大きさや本数はいくらでも変化する。東北「オサンボウ」という御幣は二尺から三尺もある。小さいものは千本幟と言って箸ほどの大きさである。この間の変化はいつの日か説明がつくと柳田氏は楽観的に見ている。生きた樹木を立てるか、木を削った棒を立てるかの違いがある。又その折衷もある。生樹の先を加工し柱の頂点を飾るとか、4月8日の天道花のように躑躅や石楠花の花木の枝を竿の先に結わえるものがある。生木が先で柱はあとで発生したと見るのが常識である。また「祭上げ」、「とむらいあげ」という33年目(50年目)の法要の最期に「ウレツキトウバ」という、墓の上に立てる木がある。杉の生木の先端はそのままにして四方を削って戒名などを書く「生き塔婆」がある。墓に立てる木は塔婆というのが普通であるが、関西では親戚知人が各自1本づつ立てるので、卒塔婆が墓の周りに林立するのである。樹の代わりにその柱竿を用いたという記録がある。日本書紀の推古帝の大柱直の記事は、山陵の塚の上に檜を立ててあまりに立派だったので、この姓を賜ったとある。ただ一本の重要な柱を心柱、心の御柱と呼んだ。宮の太柱の特別な一本に、霊を籠めた何か特別な儀式が行われたものと思われる。諏訪の御柱四本のうち一本が最も高くしてあるのも意味があるようだ。これも祭の場所を指定して、その内は神聖な領域、神様のお降りになる庭を標示しているのであろう。柱を立てて外部の穢れを遮断するという趣旨は、大祭でなければできない。紀州岩出神社(総社権現)の「齋刺(ヨミザシ)」祭がそれである。8月朔日の夜、村の東西に榊の柱を立てる(刺す)。信州穂高の「境立て」もそうである。九州宇佐八幡宮の「柴刺」の神事は、2月と11月の大祭の7日前の夜45本の榊の齋柴(イミシバ)を諸所に刺して歩く行事である。記録には「致斎」と書かれている。齋刺とは忌刺、柴指ともいう。九州の南の農村では門口や軒先に挿すことは正月に松を立てることと同じである。柴指は旧8月の壬(みずのえ)の日といい、先祖を祀る日の始めであった。日本の祭りというものの大きな変遷の一つ、正月や節句とかの家の行事と、村の神社の共同の祭りとが本来は一つのもので、後に二本立てに別れたのではないかと推測される。頭屋の家には柴指と同じ標識を立てる地方がある。頭屋と神職も元は同じ人物が勤めていたと考えられる。頭屋の選任方法にも、変遷があった。最も普通には「軒並み順位制」、立候補者が数ある中では「籤引制」があった。ツカサすなわち巫女になる女性を決めるのもこの神託による籤引という手続きを取る。「指名制」では木を削り白紙をしでに垂れた御幣を頭屋に渡す。近江多賀御社の馬の頭でも頭人を指名するに、神職がオサシ棒という大きな幣を頭屋の門に挿したという。白羽の矢が立つという言葉も、神の意志による人選という形をとる趣旨であった。頭屋の任期は1年が普通で、決まった後は家を掃き清め、注連を張り巡らせ、潔斎を行わなければならない。オハケサンという大きな幣や、榊の木、または幟を家に立て頭屋であることを標示する。そのやり方や立てる場所には変遷が激しい。しかし古くは南西諸島の柴指のように、各戸全員が物忌みに入り、その標を出すこと、そして賀茂の祭りに日に先だって軒の簾に葵を掛ける習わしが連綿と続いている。都の松尾神社では今も榊立てと称して、青年団が家々の屋根に榊の小枝を投げ上げる。こうした総員奉仕の形式が最初にあったものとみられる。秋田県生保内村の「カクラ祭」では、頭屋を務める家に法印がやってきて舞を舞う習わしがあった。これを「ミテグラ」と呼び、先のとがった御幣を屋根の上に投げて挿して標識とした。ミテグラとは神坐となる幣のことで、御幣とか幣帛の意味を持たせたのは後の事である。後年新しい土地に勧請する場合が増えたので、このミテグラを手に持つものが、神の指令を受けてお祭りに奉仕する主要な役柄になった。近代日本国が列島の四辺、大陸に進出するにつれ、神をミテグラによって迎え奉ることが頻繁となった。キリスト教が全世界に広がることで各地に教会が建てられたように、日本の進出先に神社が盛んに建てられた。しかし信仰は根もなく広がるものではなく、論理や考えに先行するなんらかの性向がなければならない。さもありなんという気持ちがなくては、あり得ないことを信じることはできないからである。沖縄でな「蒲葵葉世(コバノハヨ)」という言葉がある。すなわち岩根木草の言問い交わした世を容易に信じること、神霊が人に憑いて語ることの二つが古い常識であったという。神道はその上に立っている。夢と託宣を認めるかどうか、これが信仰の分かれ目である。地方におけるあらたな祭場の設定は、この伝説的な経験によって可能だったと思われる。歴史上の古い例では東国の鹿島御子神、西国では八幡神の見た子への進出であった。北野天神の勧請が大きなものだけで全国で2万数千社、賀茂・春日・八坂・鹿島・香取・諏訪・白山がほぼ同数勧請されている。神木は社殿の建築の華やかさに比べ見劣りするが、八幡太郎の旗立桜、白旗松、逆さ杉、衝立銀杏などが伝承を伴ってその数が多い。この錯綜を極めた文化複合のなかで、日本民族の比較的単純なこともあって、記録なき歴史の追跡ができる可能性がある。諏訪の御柱行事として山に入って柱とすべき木を定める作法は神職が行う。神職が鎌をもってこれぞという木に打ち込んで決定した。この鎌を「薙鎌(ネェカマ)」という。東国では箱根などの頂上に「矢立て杉」という大木があって、それに矢を射立て神を祀らった。社殿の発達によって神の住居が固定されると、神木はますます大切になる。人に対しても神に対しても標識を立てる必要があり、注連を張って穢れを遠ざけるのである。「ホデ」という標示を立てる。「シデ」と呼ぶ人もいる。神聖な木であることを示す標識であった。シデの要部はその幣串にあり、榊の小枝の玉串はここから出た言葉である。御幣は後に脩祓(おはらい)の道具にもなった。このミテグラを手にする人が、特殊の階級(神職、巫女)となった。もとは旧家の本家筋の人が世襲に依て神を祀っているうちに神職になった例が多い。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿