ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月16日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第4回

6) 優等生
小学校は、大きな知的努力を必要とはしなかった。体操・図画などは不得意でした。担任は全科目を教えるが、生物学が得意な先生だったので随分実験には興味を持った。校門の外にパン屋があり休み時間に昼食を買いに飛び出したが、あるとき始業ベルに間に合わなくなるという事件が起きた。先生に見つかって尋問を受けたが、自分だけが止めに入ったのだという先生の誘導に乗って、嘘をつき罰を遁れたことをずっと自分に対する憎悪となった。1920年代の末、渋谷は環状線と市電の他、玉電や東横線や地下鉄の駅が集中し、渋谷が東京の繁華街の一つになろうとする成長期の町であったので、人口が増えたため新設のコンクリート造りの小学校であった。4年生の終わりに中学校へ進学する組と進学しない組に分けられた。進学組に入った私の担任は師範学校出の若い教師で入学試験の厳しい訓練を受けた。毎年第1級の中学校へ多数の卒業生を送り込む学校は第1級の小学校と見なされた。本郷の誠之小学校や青山師範の付属小学校などが第1小学校と言われた。第1級の小学校になるため厳しい補習授業も行われた。私は試験勉強競争に、多くの子どもたちが遊びに感じる面白さを感じていたようであった。父は、5年が終わって資格試験を受けるとそのまま中学校へ進学できる(飛び級)ように考えて、小学校の先生を家庭教師にして試験勉強に邁進した。そして小学校を5年で終えて府立第1中学校へに入学することができた。

7) 空白5年
1930年代の初め、東京府立第1中学校は日比谷から平河町に移った。各種学校を並立させたマンモス中学校だった。府立第1中学校はそのころ第1高等学校へ多くの卒業生を送る名門校であった。その受験予備校としての性格はプロの予備校教師によって担われた。満州事変が起きた年に府立第1中学校に入学し、中学校の5年間はほとんど一人の友達も見出すことはできなかった。そこでは基本的人権も議会民主制も自由民権運動の言葉は全く聞かなかった。授業は退屈であったにすぎない。教師たちはあだ名で呼ばれ「ネギ」、「ドブラ」、「テカ」などが記憶に残っている。

(つづく)
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