ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 中村桂子著 「科学者が人間であること」(岩波新書2013年8月 )

2014年04月29日 | 書評
デカルト的二元論の科学文明から、人間が自然のなかにある生命論へ 第6回

3) 日本人の自然観

 人間と自然の関わり合いでいつも話題となるのは和辻哲郎の「風土」であり、オギュスタン・ベルクがその解説をしている。「自然が人間生活を規定しているのではなく、人間存在の構造契機として風土が意味を持つ」という。ユクスキュルの「環世界」にもつながる。先の大森氏の言葉「心ある自然が立ち現れる。それが私がここに生きていることに他ならない」の「立ち現れ」にリンクする。中村氏の「生命誌」ではあらゆる生物にとっての「環世界」と人間にとっての「風土」を意識してゆきたいという。日本人にとって風土とは、「里山」、「棚田」はその象徴です。日本人が生きる風土を略画的世界観としたときに、どんな重ね描きができるかを、宮沢賢治と南方熊楠を例にして考えようと中村氏はいう。「無為自然」を説く老荘の教えでは近代科学文明を批評することはできても、それに代わるものを構築することはしょせん不可能である。東洋的専制君主支配を安泰にする民力不活性化理論(民の反抗力を鎮静化する君主論の一種)であるからだ。自然一体化論(アニミズム)ではやさしくはなれるが、呪術では世界観変革のエネルギーにはなりえない。中村氏の期待に背くことになるが、色ごとにしか興味がなかった日本的自然観が近代科学思想を変革するとはとても考えられない。原発事故で反省をすべきは日本人であって、原発事故を起こしたのは西洋の科学崇拝思想で悪いのは日本的思想ではないと考え、その日本人の伝統的思考法に変革の期待をむける中村氏の論はいただけない。同義矛盾か論理が相反している。ここでも反省しない日本人の心が如実である。理科教育で日本人は「自然を大事にしてきた」と中村氏はいうが、日本人だけが特別に自然を大事にしてきたとも思われない。そうすれば「環境問題」は起きなかったはずだ。また一時期の農業に親しむ教育が「自然の中にある人間」形成に役立つとも思えない。英会話や株投資教育よりは自然に近いといっても、自然破壊は個人のことではなく経済界・産業界の大きな枠組みで行われている点を見逃している。宮沢賢治の童話の数々から、谷川徹三編 宮沢賢治童話集 「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」 (岩波文庫)より賢治の人々の生活を思う心は十分にわかるが、吉本隆明氏は「宮沢賢治の世界」で「自然は変えられるというのが、宮沢賢治の重要な思想だ」と述べている。中村氏は賢治の童話作品群より「グスコープドリの伝記」、「土神と狐」、「虔十公園林」を取り上げ、「本当の賢さ」、「本当の幸せ」が賢治のテーマだという。そして賢治の世界に生命誌のテーマを見るという。「当たらずといえども遠からず」式の両者の間にそれほどの連関を私には発見できない。東北の貧困の中で生きた明治の人のひたむきな真面目さは理解できても、科学というものが希薄だった頃の素朴さが略画的世界だとか自然観だということにはならない。南方熊楠という人は、全くアカデミズムに近づかなかった人として有名である。学校も出ず、留学しても学校に行かず、帰国してアカデミズムに属さず、野外で粘菌の研究と民俗学にいそしんだ人であった。したがって天才か狂人かその評価は難しい。常人の域を脱した博学であることは確かである。熊楠の言葉に「心界が物界と交わって生じる事柄の重要性」とある。接点を「縁という。」中村氏はこのことは生命誌のなかで同感するという。熊楠の思想のるつぼは「南方曼荼羅」と呼ばれているが、神羅万象の複雑な関連図をさし、その形式の複雑さは生物学でいう代謝経路図にも通じるという。それが曼荼羅の様相をさす。21世紀の科学はまだ複雑系を理解する手法を開発していない。熊楠は「今日の科学、因果(決定論)は分かるが縁(生命論)が分からぬ」というが、21世紀の科学は、決定論から生命論へ変わる生命誌の出番だと中村氏は我田引水している。科学計測の分野では観測者は観測系に影響を与えてはいけないことが原則である。ところがポランニーは対象に住み込む(コミットメント)ことでわかる「暗黙知」があるという。知もしくは認識は必ず言語化されなけばならない。ポランニーは言語化できない知、それが暗黙知だという。
(つづく)


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