ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月21日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第6回

Ⅰの巻 「人間とは何か」

第1グループ 「人間のありよう」 (その3)

⑦ 他の人の死に判断を下すことについて  (第2巻 第13章)
人間の生において最も注目すべき事態である死に臨むとき、人はなかなか自分の死を納得できない。それは自分たちをあまりにもたいそうに思っているからである。我々はあくまで自己中心的な存在を引きずっている。自分はほんの一個の存在でしかないのだ。死を前にした人たちを考えると、彼らに確固たる態度をとらすのは運命であり、彼らの意図ではない。死を前にして強がるのは容易なことである。自殺は女々しい。カエサルもプリニウスも「時間の短い死は人生の最上の幸福である」という。死をじっくり考えること耐えられないことである。ソクラテスはたっぷり30日間自分の死を考えた。その時間全体をかけて死を消化しきったということは立派な行為だという。病気の場合、断食による自死という、衰弱の状態のなかにある一種の甘美さがある。大切なのは品格を保ち、賢明に、確固として死ぬということであり、「世の中から逃げ去るのではなく、そこから立ち去ることである」とマルケリヌスはいう。

⑧ 我々は純粋なものはなにも味わうことがない  (第2巻 第20章)
人間のありようの力弱さによって、物事は純粋な状態ではとらえられない。我々の所有する快楽や善のうち、悪と不快が何らかの仕方で混じりあっている。悦楽と苦痛は背中合わせで、同じ材質で出来上がっていることの証明である。至福・安楽はそれ自体を抑制できないと人を圧迫する。憂鬱さの中で自分を支えて生きているのは、意図の満足と甘えの態度があると考えられる。泣くこともある種の快楽である。自分がこまごまと自分に向かって告白するとき、私の持っている善の性質も悪徳の色に染まっているのを見出す。プラトンは「法律の不適当な点を取り除こうとすると、法全体を殺すことになる」という。そして哲学上の様々な意見は実際の行動には不適当なのである。中庸の才能は役に立っているのである。

⑨ すべてのものごとにはその時期がある  (第2巻 第28章)
高齢になってから勉強することは、あまり褒めたものではない。若い人は準備をしなければならないが、年とった者は自分の実りを楽しむものである。片足を墓穴に入れてもなお、我々には数々の欲望や企ては跡を絶たない。断捨離精神ですべての場所に二度と来ないと考えて別れを告げ、持っているものを毎日捨ててゆくことが必要である。ウエルギリウスのように「私は生きた。そして運命が与えた行程を歩ききった」と言いたい。小カトーは「老衰の時期に勉学をするのは、強くすぐれた人間となってより安らかにこの世から立ち去るためである」と答えて、死にゆく前日も本を読んで過ごした。

⑩ 徳について  (第2巻 第29章)
魂が突き上げられて起こした行為と、確定した一貫して変わらない状態との間には、ずいぶん大きな差がある。人間の判断力の弱さはひどいものであり、一生を通じて一貫して死をあらかじめ考えておくことは奇蹟である。運命に翻弄され、人が偶然的と呼ぶ原因も、神が許した自由裁量のようなものである。

(つづく)

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