ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 海老坂 武著 「加藤周一ー20世紀を問う」 岩波新書2013年

2018年10月09日 | 書評
博覧強記の知の巨匠の伝記、日本思想と文学の「日本らしさ」を問い続けた軌跡をたどる 第7回

第5章) 1960年代 (その2)

加藤氏はカナダ滞在時代の3つの小説を発表した。「詩仙堂志」(1964年)、「狂雲森春雨」(1965年)、「仲基後語」(1965年)、そしてその3つを併せて「三題噺」(1965年)を単行本で刊行した。すべて伝記であるがある面をクローズアップする手法で、文体もユニークである。「詩仙堂志」では老人と私の対話形式、「狂雲森春雨」は一休に愛された女のモノローグ、「仲基後語」は仲基と同時代の人々(死者)を呼び出して新聞記者がインタビューする形式である。武士から世捨て人になった石川丈山の日常生活の芸術化、平安時代の日記の文体による一休和尚のポルングラフィー、日本人のくせを論じた知性主義者仲基のお話である。1966年「羊の歌」はアサヒジャーナルに連載された。少し早すぎる自伝を書いた加藤氏の心境は、サルトルの自伝「言葉」(1964年ノーベル文学賞受賞拒否で有名)に影響されたものと思われる。書き出しが祖父から始まること、自然のテーマが多いこと、文体が類似している。サルトルは実存的精神分析者として自分に距離を置いた「自虐のナルシズム」で自伝を書くが、加藤氏もそれに近い距離で自分を描いている。「羊の歌」の前半部は第1に都会の中産階級の息子の自己形成の物語である。ただ中学5年間にひとりも友人がいなかった空白の日々で、記憶に残るのは道玄坂の夕陽だけだったという。第2に「羊の歌」は両大戦の間の日本の文化風土の記録である。築地小劇場、印象派の絵画、ドイツロマン派の音楽、当時の知識人の証言などにみられる。第3に戦争直後の東京市民の「不屈の生活力」の描写が優れている。第4に広島原爆調査団に医師として参加したことの言及が何もないことが気にかかる。表現不能なのか語りたくなかったのだろうか。占領軍への協力を恥じた沈黙なのであろう。第5に自伝「羊の歌」は全体化の試みである。時代の社会と文化の中に位置づけながら一人称で語る自伝が反省的であるがゆえに、語られなかったことが多い。「羊の歌」という本はこの後で読む予定なので、詳しくは読書ノートにまとめる。1960年代の末は世界は若者の不満で爆発しそうであった。1968年アメリカの白けたヒッピー文化を論じた「世直し事はじめ」は、小田実の「何でも見てやろう」を出るものではない。急進的なフランスの学生運動「五月革命」の記述はそれほど突っ込んでいない。1968年プラハの春で、冷戦と民主主義への異議申し立てから始まった若者の運動は知の在り方、生活の在り方を揺り動かし、以降映画、演劇、哲学(フーコら)、絵画に深い影響を与えた。1969年加藤氏は西ベルリンのベルリン自由大学教授に就任したが、学生に授業をボイコットされたり学生との関係は良くなかったようである。1973年加藤氏はベルリンを去った。1968年プラハの春(ドプチェク政権の自由化政策、ハベルら知識人の宣言)とソ連のプラハ進攻に遭遇した加藤氏は、1969年「言葉と戦車」を書いた。チェコ国民は無抵抗主義を選択し、「圧倒的で無力な戦車、無力で圧倒的な言葉」という表現を残した。民主主義的社会主義のチェコをソ連は圧殺した。ところが加藤氏の政治思想は捉えがたい。又1965年に始まった中国の「プロレタリア文化大革命」は1968年劉少奇ら「ブルジョワ実権派」打倒となった。永久革命と権力闘争に終始した文化革命は、経済政策の失敗、国民生活の困窮化を隠すための毛沢東派の巻き返し策であった。加藤は1971年の秋訪中して、「中国または反世界」を書いた。加藤氏はある意味で非政治的であり、政治音痴かもしれない。文化革命の権力闘争には目が向けられていない。とはいえ当時の知識人も文化革命の意味を正確にとらえている人は少なかった。

(つづく)
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