ブログ 「ごまめの歯軋り」

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和田純夫著  「プリンピキアを読むーニュートンはいかにして万有引力を証明したか」 (講談社ブルーバックス2009年)

2016年10月08日 | 書評
近代科学の出発点となった運動の法則や万有引力を確立したニュートンの金字塔 第3回

1) プリンピキアの誕生まで (その1)

ニュートンはガリレオが亡くなった1642年英国のウールスソープに生まれ、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ。当時の大学はギリシャ哲学なかでもアリストテレスの体系を学ぶことが中心であったが、図書館ではデカルト、ガリレオの新しい学問を知ることができた。1665年ペストの流行で大学が閉鎖され、一時ウールスソープに帰省したニュートンはそこで1年半研究を進めたという。デカルトの影響を受け、方程式による曲線や曲面の分類、無限級数の理論、微分積分という概念を確立した。リンゴが落下するのを見て万有引力を発見したかどうかは定かでなないが、1666年ニュートンは地球上の物体に働く力(重力)と、地球が月に及ぼしている力を比較して、その力が距離の二乗に反比例するなら(逆二乗則)ば、同じ力であるという計算をした。いわゆる万有引力の法則を発見である。落下運動だけでなく一般の運動の法則の学問が始まった。これが近代科学の始まりであったといえる。しかしプリンキピアという本が出版されたのは21年後の1687年のことである。ペストがロンドンで終焉した1667年にニュートンは大学に復帰し、教授職を得た。ニュートンの名は次第?に知られるようになり、光の研究、反射望遠鏡の発明など行った。英国のロイヤル・ソサイアティは反射望遠鏡に関する論文を寄稿するよう依頼した。それに対してニュートンは1672年太陽光はさまざまな色を持つ光の集まりであることを示した「プリズムの実験と報告」を提出した。そもそも光とは何であるかについて多くの人の考えとは相いれないものであり、特にロバート・フックからの反論にニュートンは悩まされた。1680年巨大な彗星が11月に現れ消えて、12月にはっきりと尾を引く彗星が出現した。この2つの彗星が同じものではないかと気が付いた人が、グリニッジ天文台長のフラムスティード(エドモンド・ハレーはその助手)であった。フラムスティードはニュートンに手紙を送り、彗星は太陽に引きつけられ方向を変え、そしてその力は磁力ではないかといった。ニュートンは高温の太陽に磁力はないとして太陽かた引力を受けて太陽の周りを旋回して戻ってきたという推論を述べたという。天体間に働く重力、そしてそれによって軌道が曲がるという力学の基本概念を述べたのである。フックも1679年に惑星の運動をそのように考えニュートンの意見を求めている。このことがフックとニュートンの惑星軌道論の先陣争いに発展した。惑星と太陽との間の力が距離の二乗に反比例するとすれば惑星の軌道は楕円になるということをニュートンが証明したのもこの頃のことである。重力の逆二乗則はケプラーの第3法則から推定はできるが、惑星の軌道が楕円軌道となる?戸をニュートン以外には誰も気づいていなかった。1684年ハレーはニュートンに会いこのことを論文にするようにと説いた。そこからニュートンによるプリンキピア(自然哲学の数学的原理)の執筆が始まった。1686年4月に第1編が完成しそして1687年7月に全編が完成した。プリンピキアという本は、コペルニクスの仮説の数学的な証明に止まらず、目指すところは普遍化された物体の運動の法則の確立であった。プリンピキアではまず物質の量、運動の量、力などの用語が定義され、3つのニュートンの運動の法則に向かう。それに続いて様々な命題、定理、補助定理が整然と続く。距離の逆二乗則の力が働く惑星の運動のみならず、地球の扁平度、歳差運動(自転)、月の運動、潮汐、抵抗を受けた物体の運動、彗星の運動など様々な問題が解かれる。そして万有引力という力が、単に惑星軌道の問題ではなく、すべての現象の背景にあることを明らかにする。こうしてプリンピキアは新しい自然観を打ち建てたのである。ニュートンの思想に影響を与えた人物は、ガリレオ、デカルトである。プリンキピアによって地動説は完全に勝利した。地球は天体の一つである(過ぎない)という位置づけを行った。さらにプリンピキアによって、物体の動きは数学によって厳密に記述できることが明らかになった。ここに近代科学が始まったと言っていい。

(つづく)