ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」 (ちくま新書 2013年)

2016年06月23日 | 書評
ホッブス

政治社会秩序を考える際の、思考実験装置「社会契約論」を読み解く 第3回

第1章 ホッブス

トマス・ホッブス(1588-1679)はイングランドのマームズベリの貧しい牧師の次男として生まれた。オックスフォード大学に学び、大貴族のお抱え教師として一生を独身で過ごしたといわれる。ルネッサンス以降の人文主義的教養を身につけ、政治の問題を宗教から切り離して、独立の問題して考える習慣を受け継いだ。彼の生きた17世紀は「科学革命の時代」と呼ばれ多様に、自然科学が飛躍的に発展した。主著「リバイサン」は数学的証明の方法で、政治社会の法則を解き明かそうとした点で斬新であった。社会科学はホッブスから始まる。政治に関する著作として、1640年に「法学原理」、1642年に「市民論」、1651年に「リバイサン」、1755年に「物体論」、1658年に「人間論」が出版された。すべての著書は晩年の書である。その理由は1941年にピューリタン革命がおき、国王と議会の確執が頂点に達し、何かについて発言することが身の危険にさらされることであり、発言を控えたとみられるという。その間自然から人間社会を独自の視点で捉える政治理論が熟成するまでに時間がかかったということも発表が遅れた理由の一つである。そういう意味で、ホッブスの「リバイサン」とマキャヴェリの「君主論」の2書は、毀誉褒貶の激しい過激でエキセントリックな近代政治思想の中で異彩を放った書物であった。ホッブスの主著「リバイサン」のタイトル「リバイサン」とは恐ろしげな海の怪物という意味である。秩序の無い状態を「自然状態」と呼び、自然状態では人と人は闘争状態にあるという。そこで他人に殺されないために互いに殺さないという契約を結ぶ。これが社会契約でsる。そして全員の武装を解除し、約束を守らさせるために、武装する権利を第3者の誰かに譲る。それが国家であり、「夜警国家論」ともいわれる。ホッブスの人間像は、性悪説にもとずく醜悪さで代表される分かりやすい理解である。分かりにくいのは創ろうとする政治社会の像である。ホッブス評価が定まらないのはこのためである。ホッブスが政治秩序を始めるその瞬間に約束があるという点が独創的で「約束の思想家」と言われる由縁であった。彼は全く新しい言葉で政治秩序を語り、人間社会のルールを説明し始めた。彼は結論が見え透いている合目的論なアリストテレス的哲学に我慢がならなかった。歴史的あるいは既存の集団を前提とする秩序像を一切否定した。自然科学的な手法によって、政治社会の成立の瞬間つまり「約束」が発生する場所を究めたかったのである。ホッブスは「個人主義的ー原子論的世界像」と言われるように、世界を個人より小さな単位に分解し、その物体の運動と理解するようである。物理運動のように衝突と作用反作用の力関係と類似な、社会関係は2つ以上のものの関係となる。個人の情念が行動の指針とすると、実にくだらない「熟慮」の結果が最終的な意志的行為である。何が起きるかはその時に状況次第で、運動論的世界では、当事者は何が起きるか予測不能で恐ろしいのであるという。ホッブスは政治を論じる際に個人を単位とし、意志的行為の単位を個人とみた。ホッブスにおいては意志とはコントロールできる能動的なものではなく、意志は「最終的な欲求」に過ぎなかった。神の意志から離れて、人の行為の自由と必然性は「脱構築」され、「関係」だけが残るのである。この個人の意志という問題は、ショーペンハウエル(1788-1860)は個人よりずっと根源的な生の原理としての力とする考えに通じるものがある。それはニーチェに引き継がれ、力には方向があるという権力の問題となる。さらに他者関係としてニーチェの論点を突き詰めたフーコ(1925-1984)は、権力に対して特異な見方をする。人間の活動を個人には還元できないさまざまな力の集まりと考え、それを運動として他者に向かい他者の運動との衝突する力、すなわち権力とする発想はホッブスからフーコまでの300年の系譜として捉えることができる。

人の行為がいいとか悪いとかはさておいて、ホッブスは最も重要な基本的な事柄として「自己保存」を置く。生身の人間の激しいぶつかり合いからどうして秩序が生まれるのか。ホッブスは必ずしも明確に語っていない。後世これを「ホッブス問題」と称する。ホッブスは自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。自然状態を脱して法が強制力を発揮する政治社会に至る道、きっかけを考えるのが「ホッブス問題」である。人々が一斉に武装解除をするのでなければ、いつまでたっても契約は成立せず政治社会が現出することはない。ホッブスはここで「理性の命令」という概念を出してくる。これは別名「囚人のジレンマ」と呼ばれる問題に等しい。ホッブスは「ホッブス問題」をどう解決したのだろうか。リバイサンの記述は不明瞭である。ホッブスは「人々が戦争状態を脱して平和と安全を手に入れる唯一の方法は、自分たちの権力と強さを、一人に人または一つの合議体に与えることである」と考えた。構成員が相互性をもって、この合議体に権威を与え、私自身を統治する権利を与えることが条件である。ずるいやつがいて権力への距離が異なる場合、約束する人々の間で非対称性は許されない。そんなことがどうして可能になるのか、ホッブスは何も言及していない。ホッブスにおける政治とは、人間がその共存の条件を自分たちで決め、共同性の行く先をその都度修正してゆく初めもなければ終わりもない永遠の活動である。ホッブスの条件付き政治社会の再構成とは、社会契約論の典型であろう。永遠に鉄砲を放棄できないアメリカ人には社会契約論は今もなお不要である。この自己防衛の権利を放棄した秩序は、人間たちが結びつくという社会の中でしか根拠を持てない。すべての人が自分押し全権を譲り渡して、主権者は同意した全員の力の総計と同じ力を得る。ここに権利は主権者に結集し、国家権力が成立する。当事者ではない主権者が登場する。主権者との契約には、結合契約と、支配服従契約の2種類の契約が続いて発生する。この契約は何らかの集団を単位とする契約ではない(部族社会の長老支配)、だから個人はお互いにそれぞれ別々に無数の契約をすることになる。ホッブスは二人の人間が結ぶ「信約」をもとに、社会的結合へ時間と拘束力を導入することで「契約」を説明する。信約は契約の一種である。契約とは当事者双方が利益を見出す時のみ交わされる約束である。二人の当事者が自分お利益を互いに譲渡しあうと「契約」が成立する。即時履行の場合である。ところが将来履行するという約束では「信約」という。延期された約束履行(信約)に不安が生じたとき消滅する性格である。信約が反故にされる理由として「合理的な疑い」があげられるが、平和と安全に対する脅威から結ばれた社会契約は無効になることはない。社会契約には強い義務が発生する。ホッブスは契約が法とは違うことを強調している。法とは上下関係に基づく命令であり、これに対して社会契約は自由意思に基づく対等な人間の約束なのである。自由な合意と約束を通じて当事者双方を未来に向けて拘束する。その強い力は契約の中にある。つまり約束は約束する人間を時間制を伴って拘束の内に引き込むのである。これは個人間を互いに引きつけ合う引力である。契約とは人が何かを譲ることである前に、人と人とが約束を通じて関係の内に入ることである。それは政治的共同体の始まりだけではなく、それが維持されるためにも力を与え続けるのだ。「約束だけが政治社会に力を与え続ける」これが社会契約論の核心であり、ホッブスが社会契約論の創始者である由縁である。ホッブスを近代政治理論の創始者と呼んでも過剰評価ではない。ホッブスの政治理論は近代人権思想であるかもしれない。ホッブスは、人間は崇高で冒すことのできない存在であるとは一言も言わなかった。むしろ誰でも等しくくだらないものだという認識からスタートしている。本当の意味での近代的平等の深さと強さがあるのではないだろうか。それでもなお作られる秩序があるとするならば、それはすべての人を受け入れる秩序となるであろう。碌でもない人間から秩序を作るために、ホッブスは人間同士の約束と当事者の対等性という関係に着目したのである。人間に対するこれほどの信頼の思想が他にあるだろうか。親鸞の「悪人なおもて往生す、いわんや善人をや」という平等性に通じるのである。

(つづく)