ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」 (ちくま新書 2013年)

2016年06月22日 | 書評
政治社会秩序を考える際の、思考実験装置「社会契約論」を読み解く 第2回

序(その2)

私たちが暮らすこの社会は、そのそもどうんな風に生まれたのか。社会の形成、維持に不可欠なルールとは何か。政治的秩序の正当性はどこにあるのだろうか。社会契約論とはそのような問いを根源まで掘り下げて考える思考実験装置である。普段は誰も意識しないで、その必要性も感じないし、誰がいつ定めたのか誰も知らない、実証性・実在性の極めて乏しい社会科学である。科学の分野でいう「定義・公理または仮定」かもしれないが、定理ではない。証明のしようがないからだ。しかし間違いなくヨーロッパ近世からフランス革命を経て近代の中心的的思想であった。ここから今では当たり前と思っている民主主義や主権在民を前提とする近代社会国家が生まれてきた。本書はこの「社会契約論」という近代思想を切り開いた巨人達、ホッブス、ヒューム、ロック、ルソー、ロールズの思索の軌跡をたどろうとする現代思想・政治思想の歴史である。まず社会契約論とはどんな思想なのだろうか。それは社会の起源を問う思想である。そして社会契約論は、社会が作られ維持されるために最低限必要なルールを問う思想である。そして社会は自然に成立したもので動かしがたいという考えを捨て、秩序はルールは人工的で状況次第でご破算でき新たな社会を創造しうるという前提に立つ思想である。従って社会契約論は人工物として社会をどうやって作るか、何によって維持されるのかを問う思想である。自然状態を出発点として「約束だけが社会ウ来る」この約束が社会契約で、それを通じて秩序が生まれるとする。戦後の日本では、新たな日本を作るという気概で、社会契約論は民主主義の理念を体現する思想として考えられた。そこでは国家対個人という2元設定がなされ、戦前の軍国主義への反省から、民主主義は国家権力の抑圧から人権を守る、議会制度、3権分立などの制度作りがなされた。これを「戦後啓蒙思想」と呼ぶらしい。ところが1980年代の新自由主義的風潮のなかで、戦後啓蒙思想は急速に魅力をなくしていった。全体が安定の軌道に乗ってしまうと、現実秩序への不満はあっても、ゼロから社会をつ作り直す思想へのニーズは減退した。社会契約はホッブスでは「信約」、ルソーは「合意」、ロックは「社会契約」と呼んだ。筆者重田氏は、何もなかったところに人々が集まり、約束する、そこに関係が生じる時が秩序生成の瞬間であるという観点である。現在の市場秩序はグローバル資本主義の時代になり、資本と労働の関係(個々の作り手、流通者の顔)が見えなくなり、市場社会を擁護する人々は合意に基づく交換を理由にこの秩序を正当化してきた。金融市場社会では金融工学の進展とともにその動きは投機的・怪奇である。その裏で動いている思惑は予測不可能である。約束の思想は、人が社会で取り結ぶ関係とその条件を、約束を交わす人々の目に見えるようにする。約束の思想は秩序の条件を明瞭にし、現にある不平等や不正を、等価交換の神話で隠すことをできなくする。社会契約を政治的秩序と共同体をつくる始まりの瞬間における約束として考えようと重田氏はいう。約束は人に何をさせ、約束がなければできない関係とは何だろうか。社会契約は、「一般性」という社会的ルールの正しさを考える上で重要な理念となる。個々の利害から超越した自分が、集団のために社会ルールを思考することが「一般性」である。でなければ、今の政治秩序は利害の闘争を抜けることはできない。社会契約というぼろぼろの思考実験装置を持ち出してくる重田氏のプロフィールを見ておこう。重田氏は1968年兵庫県生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業後日本開発銀行を経て、東京大学綜合文化研究科博士課程取得、現在明治大学政治経済学部教授である。専攻は現代思想・政治思想史、統計の応用史などである。フーコの思想を中心にして権力や統治を研究をしている。著書に「フーコの思想」(ちくま新書)、「連帯の哲学Ⅰフランス社会連帯主義」(勁草書房)、「フーコの穴ー統計学と統治の現在」(木鐸社)など。

(つづく)