ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」 (ちくま新書 2013年)

2016年06月21日 | 書評
政治社会秩序を考える際の、思考実験装置「社会契約論」を読み解く   第1回

序(その1)

本書を読むきっかけは、坂井豊貴著 「多数決を疑う―社会的選択理論とは何か」(岩波新書 2015年4月)を読んだからである。第3章「正しい判断は可能かー正しい民意とルソーの理想」において、『真実は神のみぞ知るとしても、人間の理性による判断が正しい確率が0.5以上ならば、多数の人間による多数決は真実に近づくことができる。それには2つの条件が必要である。一つは情報が適切に与えられて理性が働くことができる、2つは自分の頭で考え、その場の他人の考えに影響されないことつまり統計的に独立であることである。このコンドルセはルソーを踏まえて書かれていることは確かである。ルソーは「社会契約論」において「人民集会に法案がかけられているとき、人民に問われているのは彼らがそれを認めるか否かではなく、問われているのはその法案が人民の意志である一般意思に合致するかどうかである」という。ここで「一般意思」を人々の共存と相互尊重を志向する意志」と捉えると、コンドルセとルソーの意図は一致する。だから多数決においては結果に従うべき正統性が求められる。ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)はフランス革命の思想的な象徴であり、「社会契約論」を著して人民主権の原理を突き詰めた。互いを対等の立場として受け入れ合う社会契約は共同体に発展し、共同体にすべての権利を委託して結束する。これが契約行為である。この共同体を人民という、そして束ねた権利を主権という。人民に主権は属するのでこれを人民主権という。一般意思とは、個々の人間が自らの利害を離れて意志を一般化したもので、多様な人間からなる共同体が必要とするものは何かを探ることである。熟議的理性の行使それを意志の一般化と呼ぶ。一般意思を全体主義や国家主義的に捉えるのは誤りである。主権とは立法権のことである。人民とは社会契約によって生まれた分割不可能の概念上の共同体を指すのであって、一般意思とは人民のなかに存在するものではなく、個々の人間が、自らの精神の中に見つけてゆくものである。立法とはそのような行為であり、構成員全員が参加する集会で、各自がたどり着いた判断を投票し多数決で判定する。一般意思は自らの意志である故、それが定める法に従うことは、自ら定めた法に従うことである。これがルソーの展開した、少数派が多数決で決めたことに従う正統性の根拠である。』 民意とはルソーが言う市民の「一般意思」ではないかという。そこでルソーの「社会契約論」を読もうと思ったが、坂井氏は巻末の読書案内において、ルソーの考えは彼の書いたものだけ読めばわかるというものでなくて、やはり社会契約論の流れを十分把握しなければ、分からない点が多い。ということで推薦されたのが本書の重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」であった。この社会契約論の流れにジョン・ロックが入ってないことに疑問を抱いたのだが、重田氏は又巻末の「注」で、ロックを入れない理由を説明しているが、これも理解困難である。重田氏は「ホッブスからルソー、ロールズの思想の特徴は1回限りの契約が社会の近代化の源泉である。ロックは権力に委託を与える側(人民)は、個人の意思や合意を超えた連続性を持ち、歴史的な実在としての集合体としての人民を言っているようだ」と言って、ロックを退ける。ジョン・ロック著 加藤節訳 「統治二論」(岩波文庫)においてロックは政治社会の源泉について人々の合意を重視して 、『政治社会が存在するのは、その成員のすべてが自然法の権利を放棄して、保護のために政治社会が樹立した法(フッカーは理性の法という)の支配下に入ることを拒まない限り、それを共同体に委ねる場合だけである。公平で平等な規則に従って共同体が審判者となるのである。よって絶対王政は政治社会と全く相いれない。絶対王政は統治下にある人々と自然状態(フッカーは闘争状態という、ロックは戦争状態という)にあるからだ。絶対王政の利己的、恣意的な支配についてロックは長々と述べるが、ほとんどは前篇で論じたので割愛する。人々が自分の自由を放棄して政治社会の拘束の下に身を置く唯一の方法は、他人と合意して、自分の固有権と大きな保障と安全を享受することを通じて、互いに快適で安全で平和な生活をおくるために一つの共同体に加入し結合することである。この合意は多数の人々を結びつけ政治体をなし、立法部(議会)の多数派が決定しそれ以外の人を拘束する権利を有する。その共同体が結束して行動する権力を持つ団体にするには、多数派の意志と決定が不可欠である。多数派の決議が全体の決議として通用し、自然と理性の法によって全体の権力を決定するのである。もし多数派の同意が全体の決議として正当に受け入れられないならば、全個人の同意以外に何が全体の決議になろうか。構成員が多数であれば全個人の同意はほとんど不可能に近い。多数派をどう定義するか(過半数、2/3以上とか)は別にして、一つの政治社会に結合すると同意することは、多数派の同意に従うという契約がすべてである。これが合法的な統治を誕生させた。』といっている。重田氏のこだわりは私には理解できない。ヒュームを排除する必要はないが、ロックを入れるべきかと思う。

(つづく)