ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート C・リード著 彌永健一訳 「ヒルベルトー現代数学の巨峰」 岩波現代文庫

2015年10月04日 | 書評
20世紀を切り開いた「現代数学の父」ヒルベルトの評伝  第7回

6) 「変貌」 〈1893年~1894年) ケーニヒスベルグ大学助教授・教授時代 代数的整数論

1892年6月ごろヒルベルトにミンコフスキーから連絡がもたらされた。ベルリン大学で大学行政のすべての実権を持つフリードリッヒ・アルトホフが考えていることが示されたのである。フルヴィッツがスイス工科大学の正教授になるので、ヒルベルトがフルヴィッツの後に助教授の席を得る可能性が示されたのである。8月教授会はヒルベルトの助教授昇進を決定した。そして1892年10月にヒルベルトはケーテと結婚した。ミンコフスキーも同時期にボン大学の助教授になったが、ハインリッヒ・ヘルツが病に倒れたのち物理学に足する興味を失い昔の整数論に立ち戻った。彼は有理数に対する代数学的予測を幾何学用語で表現するという成果を上げた。1893年になってヒルベルトはeとπの超越性についての新しい証明法を開始した。係数がすべて整数であるn次方程式の根になる数を代数的数といい、そうでない数を超越数という。1844年リウヴィルが超越数の存在を示し、1873年エルミートはネイピア数eが超越数であることを示し、1882年リンデマンがπも超越数であること示した。そのほか三角関数の値や対数なども超越数であることが分かった。つまり超越数は何乗しても、またそれらをいくら巧みに組み合わせても有理数(整数の比で表せる数)にすることができないのである。ガウスは整数論を科学の頂点の位置するものとみなした。ガウスは一般に「体fieldの概念」を導入した。ヒルベルトは不変式論を終えて整数論に身をささげるつもりだとミンコフスキーに語った。自然数論を代数的整数論に拡張しようとするとき、大多数の代数体においては、任意の数が素数の積として一意的にあらわされる定理が成り立たない。この難題をクンマーは「理想数」の概念の導入で乗り越えた。その後素イデアルの積への分解定理のクロネッカーと、デデキントの定理の2通りの方法があった。1893年ヒルベルトはミュンヘンで行われたドイツ数学会に出向いた。数学会の企画としてヒルベルトとミンコフスキーに整数論の現状と題する報告書の作成を2年間でまとめてもらうことになった。クンマー、クロネッカー、デデキントらの業績が錯綜して、大多数の数学者に理解できなかったからである。クライン教授と友人の行政官アルトホフの相談で玉突き人事が構想された。リンデマン教授がミュンヘン大学に去ることになり、そのあとをヒルベルトが継ぎ、ヒルベルトの後の助教授にミンコフスキーがなるという人事であった。1894年からミンコフスキーがケーニヒスベルグに来て数論に関する報告書に取り掛かった。ミンコフスキーが有理整数論を扱い、ヒルベルトが代数的整数論を受け持った。彼らは1894年の1年間でこの仕事の基礎を固めた。その年の12月ゲッチンゲン大学のクラインからヒルベルトに親書が届いた。ゲッチンゲン大学のウェーバー教授がシュトラスブルグに行くことになり。後任としてヒルベルトが推されているという知らせであり、受諾の意思を問い合わせてきた。むろんヒルベルトには異論はなかった。そしてまた玉突き人事が繰り返された。ミンコフスキーがケーニヒスベルグのヒルベルトの位置を継いだ。

(つづく)