ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 唐 亮 著 「現代中国の政治ー開発独裁のゆくえ」 岩波新書

2013年05月29日 | 書評
経済成長を追求する開発独裁と民主化のゆくえ 第2回

序(2)
 中国の政治体制とか政府と行政の構造などについてはよく分からないことが多い。まして共産党の一党独裁が隅々まで行き渡っているとか言うことは、実感としてよく分からない。テレビ出てくるのは4年に1回の全国人民代表者会議(国会に当たるらしい)のひな壇の上の要人・軍人達および拍手といういかにも大政翼賛会的社会主義の形式的な大会だけである。中国の人口は約13億で日本の人口は約1億2000万人ということで、中国は日本の10倍の規模である程度の知識しかもっていない。昔中国の文化大革命のときは連日テレビが壁新聞や紅衛兵が毛語録の本を掲げている像を流していた事を思い出す。紅衛兵の事など知る人も少なくなったようだ。近くの隣人のことをよく知らないまま、近年は日本の失われた20年を取り戻すかのように、日本の企業が中国の内需を求めて雪崩を打って進出している。東アジアの社会主義国である、ソ連、中国、北朝鮮の密月期は1950年代までで、1960年代の半ば頃から中ソ共産党の不仲説が流れ、中国が自主路線を強調しだした。中国とソ連の政治構造は違うことはいまになってよくわかった。ソ連は1991年に70年以上続いた社会主義をご破算にして国は破れた(社会の混乱)が、中国はそれに同調しなかった。ソ連のゴルバチョフがブレジネフ時代の停滞社会の改革に乗り出すとき、中国は小平の改革開放路線を歩み始めていた。中国の改革開放路線は、決して共産党の一党独裁体制は放棄しなかった。市場メカニズムの導入によって近代化を進めてきた。日本で言えば明治維新が政権基盤を藩閥に置きながら、「和魂洋才」で西欧のいいとこどりをしながら、上からの改革で国家機構を作った。まさのその日本式近代化手法を中国はマネをしたのではないだろうか。明治初期には民間の成長を待っていられないほど国際情勢は緊迫していた(西欧の植民地化を恐れた)といわれる。13億の中国では民衆とは牛のように鈍重で、革命世代の指導者達(小平、彭真)は1949年に統一された中国をふたたび分裂国家にはしたくなかったと思われる。共産主義に飽き飽きしていたゴルバチョフのソ連と、共産主義イデオロギーによる支配体制を信奉していた小平の中国は結局1990年代はじめに異なる道を選択した。これを西欧型と東アジア型と文化論で分かつのはかならずしもあたらないと考える。結果的に21世紀から見ると、複合体制の中国の方式が大躍進を見せたのに対して、大国主義資源外交にこだわるロシアの歩みはジグザグであった。その差は経済的にいえば中国の旺盛な内需力と柔軟な外資導入ではなかったのか。

 本書は現代中国の政治状況を表現するため「開発独裁路線」という言葉を使って、政治体制の構造的な特徴や変化の力学を捉えようとしている。開発独裁とは、市場志向の経済政策と権威主義体制(トップはこれを独裁権力とはいわない、共産党の指導という)の結合を特徴とする。開発独裁路線とは自由経済と民主主義体制を特徴とする欧米型の近代化路線とは違う。又統制経済と全体主義体制を特徴とする典型的な社会主義型の近代化路線とも違う。発展途上国が近代化の実現に向けて進む場合、次の三段階の近代化過程をとるといわれる。①経済発展最優先の段階、②社会政策強化(福祉・環境・公共サービス)の段階、③民主化推進の段階である。とすれば現在の中国はいまや第2段階に入ったといえるだろう。そこで本書は第1章で「一党独裁と開発独裁路線」、第2章で「国家制度の仕組みと変容」、第3章で「開発政治の展開」、第4章で「上からの政治改革」、第5章で「下からの民主化要求」をみてゆく。著者唐 亮氏のプロフィールを紹介する。唐 亮氏は1963年中国淅江省生まれ、1986年北京大学政治学修士課程終了、1993年慶應義塾大学政治学博士課程終了、現在早稲田大学政治経済学部教授である。早稲田大学の毛里和子名誉教授より政治比較研究を学んだという。主な著書は「現代中国の党政関係」(慶応義塾大学出版会)、「変貌する中国政治」(東京大学出版会 2001)、「中国はいま」(共著 岩波新書 2011)ほかである。北京大学在学中に「北京の春」を見て、1987年に日本に留学しているので1989年の天安門事件は日本から見ていたことになる。中国の政治変動を近代化の比較分析の枠組みで捉える研究を行なっているという。
(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年05月29日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第19回

30) ニワトコおばさん
ニワトコはお茶にして飲むと風邪に効くといわれています。男の子が風邪をひき始めましたで、お母さんは男の子にニワトコのお茶を飲むと、おじいさんがお話をしてくれるといってお茶を飲ませました。おじいさんのお話は「ニワトコおばさん」のお話です。昔ニュボアーという港町に、ニワトコの木のある家に老人夫婦が住んでいましたとさ。二人はもうすぐ金婚式を挙げるところでした。昔おじいさんは船乗りで年中海外に出かけておりました。その夫婦の長い人生のささやかな思い出話です。

31) かがり針
くらいの高い「かがり針」と指のお話です。破れた靴を修理するため、料理女の指は針を通そうとすると繊細で長いかがり針はすぐに折れてしまいました。料理女はネクタイピンとして再利用したのですが、なんかの拍子に針は流しに落ちて、どぶに流れました。どぶの中ではごみやガラスの破片がいて、かがり針はいわば{ゴミダメに鶴」という心境で、気位の高さだけで生きていました。ある日いたずら坊主がどぶを掻き回して金属類を回収しました。そのとき道端に捨てられた針は馬車にひかれてしまいました。
(つづく)