ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 新倉朗子訳 「ペロー童話集」 岩波文庫

2013年05月03日 | 書評
フランスの民間伝承に材を得た教訓に満ちた口承童話集 第2回

序(2)
 「赤づきんちゃん」や「長靴を履いた猫」で知られる「ペロー童話集も、文学作品としては長い間陽の当たらない場所に置かれ顧みられることはなかった。児童文学、民話だという曖昧な領域で扱われ研究対象となることもなかった。1968年ソリアーノが「ペロー童話集ー学識文化と民間伝承」以来、少なくとも研究対象論文が出始め訳本も出回ってきた。本書は2つの原本から構成される。一つは「韻文による物語」3篇と、散文による「過ぎし日の物語ならびに教訓」8篇からなる。「韻文による物語」はまず「グリゼリディス」が1691年、「愚かな願いごと」が1693年、「ろばの皮」と前の2篇を合わせ1694年に出版された。本訳文は1695年の第2版を底本としたルージェ本によったそうだ。散文による「過ぎし日の物語ならびに教訓」8篇が1冊の本として出版されたのは1697年であるが、1695年には5篇だけで出版されていた。「韻文による物語」はシャルル・ペローの名で発表されているが、問題は「過ぎし日の物語ならびに教訓」8篇の作者は誰かということである。ペローは三男P・ダルマンクールに昔話の集録を指示していたので、父と子の合作説や父ペローの単独作説(子どもを隠れ蓑とした説)がある。結局10歳頃の三男P・ダルマンクールが書きとめた昔話ノートに父ペローが手を加えたり全面的に書き直したりしたという仮設がもっともらしい。本書に収められた話は口承の昔話に源を発する。「グリゼリディス」や「ろばの皮」のように、ペロー以前から書承文芸として存在していた話と「赤づきんちゃん」のようにペローがはじめて書き留めた話もある。ペローの有力な共同作業者としてレリチェ嬢がいて二人は情報交換しながら童話を伝え合っていたようである。「赤づきんちゃん」の話はグリム童話に取り上げられ、残虐な部分をそのまま残しているところから、グリムの方が原形により近いと考えられる。しかしグリムが独自に集録した話しではなく、ドイツにはこの童話の原形はなく、フランスからペローの話がグリムに流れて居る事は明白である。こうした書き換えや省略は、伝える人の道徳観念や個性を反映する。口承文藝独特のリズム感のある文句はペロー独特の個性である。こうしてみるとペローは口承の語り口や昔話の構造を伝えることにおいて先覚者であったといえよう。またペローの昔話は宮廷を中心とする同時代の現実を色濃く反映している。昔話の研究は聞き取り・記録・タイプ分類に始まり、分析してテーマやモチーフを解析し、各国ごとの目録が作られる。神話研究と同じである。ドラリュはフランスの伝承に残る昔話を分類して、ペローの書承した話(本より)が再び口承に入った話、ペローの本から完全に独立した話、両者の混合と三つに分類して原初的なモチーフを識別する作業を行った。現在の民話研究では収集の対象がテーマだけではなく、その語り手の背景や社会環境に関する情報、語り手の生きた現実にまで広げられ、より社会学化したといえる。
(つづく)


読書ノート 山岡淳一郎著 「原発と権力ー戦後から辿る支配者の系譜」 ちくま新書

2013年05月03日 | 書評
原発というシナリオに群がった人々 第7回

3) 資源外交と核ー田中角栄と柏崎刈羽原発
 1966年自民党幹事長であった田中角栄は東電の木田川社長から柏崎刈羽の不毛の砂丘に原発を持ってきてはどうかと誘いを受けたという。戦後田中と原子力を結びつけたのは理研ピストンリング会長の松根宗一氏であろう。原発誘致は松根から田中へそして小林柏崎市長へとつながった。戦前からの理研人脈によって柏崎原発の立地は決まった。そこからは田中角栄の土地ころがしのマジックで「室町産業」、木村刈羽村村長を経由し、1971年刈羽砂丘は東電に売却された。凡そ買値の26倍であったという。柏崎刈羽原発計画の建設計画発表は1969年9月であった。原子力発電は1960年代半ばからGEの「沸騰水型軽水炉」がリードし、WHの「加圧水型軽水炉」が追いかけた。東電は沸騰水型軽水炉を採用し東芝-日立ーGEの企業系列を確立し、福島第1号(1971年)から営業を開始した。東北、中部、北陸、中国の各電力会社はこれにならった。関西電力は加圧水型軽水炉を選択肢、関電ー三菱ーWHの企業系列を確立した。北海道、四国、九州の各電力会社はこれにならった。いずれも政治家が絡んだ土地買収の発信源は電力・通産省連合からであった。一方高速増殖炉(大洗の常陽)、新型転換炉(敦賀のふげん)、核燃料再処理(フランスのゴバン社への委託設計による東海再処理工場)、ウラン濃縮(原研にガス拡散法開発、動燃に遠心分離法開発)という4つを重要国策とする科技庁グループは1967年動燃開発事業団法を成立させた。動燃は1998年核燃料サイクル開発機構へ改組したが、核燃料リサイクルの中心となった。こうして科技庁グループは核燃料再処理とウラン濃縮に組織ごとのめり込むように宿命付けられたようだった。この背景には、1968年の防衛庁の報告書「日本の安全保障」に「自衛のために通常兵器であろうと核兵器であろうと、これを保有すつことは憲法9条からは禁じられていない」という解釈を示した。つまり「核武装の潜在力」を滲ませた権力側の政と官のすさまじい執念が感じられる。1967年佐藤栄作首相はジョンソン大統領と沖縄返還交渉を行った。問題となったのは沖縄への核の持込である。佐藤首相は12月の国会で「非核三原則ー核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を言明して、1969年佐藤は沖縄返還条件を「核抜き、本土並み」と公言した。同年11月アメリカで沖縄返還交渉をおこなった佐藤総理は「事前通告」の解釈において、キッシンジャー補佐官と若泉敬(京都産業大学教授にして佐藤の密使)との間で緊急事態には黙認するという密約が結ばれ、沖縄返還交渉は妥結した。そして1970年核拡散防止条約NTPに日本は署名したのである。1970年代に入って高浜、美浜、大飯、女川、伊方と原発は次々と建設された。

 佐藤から政権を引き継いだ田中角栄首相は1972年アメリカに飛んで、航空機と濃縮ウランの購入交渉という「資源外交」を展開した。1973年田中を囲んで資源派財界人が集まった。リーダーは中山素平日本興銀会長、今里広記日本精工社長、松根宗一理研ピストンリング社長、両角良彦元通産事務次官、右翼フィクサーの田中清玄らが集まった。、目的は北と南の石油油田開発交渉であり、もうひとつはロスチャイルド家の影響下にあるフランスのウラン利権の共同開発であった。フランスから日本へウラン濃縮「ガス拡散法」のの共同開発が持ちかけられた。さらに田中は1980年から濃縮ウランをフランスから輸入すると公言した。これに乗ることはすなわち「米国の核の傘」の外へ出ることであり、これが米国の神経に触れて田中角栄はロッキード汚職事件というスキャンダルで消されたと著者はいう。1973年「石油ショック」が日本を襲った。田中はソ連との石油開発交渉は座礁に乗り上げて帰国する。11月には石油ショックでパニックが起きた。石油確保のためには田中は反イスラエルのアラブ諸国に接近しようとした。これもアメリカの逆鱗に触れた。田中はエネルギー資源外交で世界中を飛び回る中、1974年6月原発立地の難航に対して、「電源三法」を成立させた。電源三法の仕組みは電力会社の税から積み立てこれを立地自治体にさまざまな交付金・補助金・委託金にして支払うことであった。例えば刈羽原発の刈羽むらには230億円が流れ込む。しかし電源三法の資金は原発設置から30年が限度である。それを元手に自律的な産業が育つわけでもなく、永久に原発を作り続けなければムラの財政は破綻するのである。これを「シャブ漬け」と皮肉る向きもある。
(つづく)