ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 渡辺純夫著 「肝臓病ー治る時代の基礎知識」 岩波新書

2012年04月20日 | 書評
肝臓が心配なあなた早やめに診察を 第2回

序(2)
 また肝臓機能の点から血球数も重要である。「AST」、「ALT」は肝臓の細胞が破壊されたときに血液中に漏れ出てくる「逸脱酵素」である。ALTはその殆どが肝臓にあり、正常値は40以下です。ASTは肝臓以外でも心臓や筋肉、腸にも含まれ、正常値は30以下である。「ALP」と「γーGTP」は胆道系酵素である。この2つの値が高くなると、「閉塞性黄疸」と「肝内胆汁うっ滞が考えられる。そして同時に「総ビリルビン」の値も上昇しているのが特徴である。「ALP」の値が単独で高くなるときは肝臓以外の病気(骨や小腸)が疑われる。「γーGTP」はアルコール性肝障害の敏感なマーカーである。ビリルビンは肝臓で作られ、胆管から12指腸で分泌される。ビリルビンが腸に行かないで血液に出てくるのが黄疸である。溶血性貧血でも「総ビリルビン」は上昇する。血液中の蛋白質の殆どは肝臓で作られるので、「総タンパク」の低下は多くは肝機能の低下を反映する。肝硬変など進んだ病態の指標である。赤血球の数は貧血の程度をあらわす。肝臓の病気で貧血が起きるのは、肝硬変が進んで脾臓が大きくなり、脾臓で赤血球が壊されるからある。赤血球や白血球の数が減少するのは肝硬変が進んでいる事を示す。ウイルス検査で、B型肝炎ウイルスの有無をしらべるHBs抗原、HCV抗体はC型肝炎ウイルスの有無を検査する。一度C型肝炎に感染した人も陽性とでるので、本当にウイルスがいるかどうかは遺伝子検査が必要となる。肝がんには「腫瘍マーカー」といわれる「AFP」、「PIVKA-Ⅱ」の検査がある。人間ドックでは「AFP」が検査されるが、慢性肝炎や肝硬変でも「AFP」が高くなるのは、肝臓細胞の再生が盛んに行われているという証拠でもある。人間ドックや成人病健診の目的は、主に慢性的に経過する病気を発見することである。肝臓で言えば脂肪肝や慢性肝炎、肝硬変を見つけることだ。急激に展開する激性肝炎やガンなどではあまり参考にならない。検診直後にガンが発生し1ヵ月後にガンの手術をした話もよく聞く。

 血液検査で異常値を見つけたら黄色信号なのだ。赤信号になる前に精密検査と必要な治療を受けるべきなのだ。C型肝炎の遺伝子型2a型は今では80%に人が完治する時代である。善は急げである。医師の診断を受ける際に明らかにすべきことは、①原因は何か、②病態はどの程度か、③治療はどうするかの3点である。人間ドックなどで「肝臓が悪そうだ」と指摘されたら、「肝臓病の専門医」か「消化器病の専門医」を目安に門を叩くべきです。開業医、一般病院、大学病院のいずれでもきちんと見て対処してくれるならどこでもいいのだ。検査機器の完備している大学病院ならよさそうですが、紹介や時間が必要なら、専門医を探すべきです。自分の守備範囲をわきまえた「よい医者」なら、必要なすべての手配をしてくれるはずです。
(つづく)

読書ノート 山本太郎著 「感染症と文明ー共生への道」 岩波新書

2012年04月20日 | 書評
感染症との闘いは人類に勝利をもたらすか 第10回

3)感染症と人類の生態学(共生への道)(1)
 歴史を見ると、突然流行し、そして消えていった感染症がある。15世紀イギリスで流行した「粟粒熱」、1950年代中欧と東欧で流行した「新生児致死性肺炎」、1950年代後半に東アフリカで流行した「オニョンニョン熱」、第2次世界大戦後日本で見られた「疫痢(えきり)」もそういう感染症であった。「新生児致死性肺炎」は全身性サイトメガロウイルス感染を合併するカリニ肺炎が、1939年バルト海の港町ダンツィヒにおこり東欧・北欧へ拡がった。1955年アランダのハーレンでも発生した。感染小児は高グロブリン血症を示すため、なんらかの免疫不全が関係しているようだ。「オニョンニョン熱」はトガウイルス科のウイルスによって引き起こされる。1959年に第1回の流行がウガンダで見られ東アフリカ諸国に広がり、200万人が感染した。第2回目の流行は1996年にウガンダで始まり、400万人が感染した。姿を消しそうなウイルスとして、日本の成人T細胞白血病ウイルス(HTLV-1 レトロウイルス)がある。感染者は生涯5%で白血病を発症するが、潜伏期間は50年以上である。母子感染が主なルートである。感染は南九州と沖縄・四国・紀伊半島南部、五島列島・壱岐対馬・隠岐、山県・秋田に分布する。これは南島から来た古代倭人の進出ルートであり、このウイルスを持った倭人と、新たに渡来したウイルスを持たない集団(大陸モンゴル系)との混合によって現在の日本人が形成されたという日本人形成の歴史を物語っている。長崎の調査では、1987年に抗体保有者が7%いたが、2005年には1.5%に低下した。あと少しで消えそうである。
(つづく)

読書ノート 保坂正康著 「田中角栄の昭和」 朝日新書

2012年04月20日 | 書評
高度経済成長の昭和は私たちに何を残したのか 第14回 最終回

6)闇将軍と田中政治の終焉 (2)
 田中氏は昭和59年に入っても徹底して田中派の拡大と自らの政治的権限の増大に向けて努力していた。田中派は既に130人になっていた。田中の政治信条は「表決政治は1票たらなくても落選は落選」というように数の力がすべてであった。昭和59年密かに官僚派の宮沢喜一が総裁選出馬の了解を取り付けに訪れているし、阿部晋太郎は竹下に総裁選を打診しに来た。田中氏は自分の有力な後継者を作らずに、自らの影響力で睨みを利かしていたことが、若手らに自分が出る機会がないという不満を募らせていた。中曽根の後を狙うニューリーダーとして竹下に次第に声望が集まってきた。昭和60年竹下は「創政会」を旗揚げしたが、田中からはまだ早いという妨害を受けた。竹下は一応田中に従う様子を見せ、派中派という分派活動を既成事実化していった。その頃から田中氏の苛立ちと不安が募り酒量が増えたという。ついに2月田中は脳卒中で倒れた。田中の家族(真紀子氏)の希望によって田中派との結合関係は切れてゆき、昭和61年の総選挙で自民党は304議席を獲得する大勝利をおさめ、田中も断トツ一位で当選したが、次第にその存在は党内では薄れていった。昭和62年竹下派が「経世会」として旗揚げをし、ここに実質的に田中派は消滅した。田中派に殉じる二階堂派は15人程度で、竹下の経世会は113人の大きな派閥となった。田中派は事実上竹下派に乗っ取られた。経世会の結成から3週間後東京高裁の判決は控訴棄却であった。最高裁で争うことになった。同年11月竹下登が首相となった。田中角栄氏は平成元年10月政界引退を発表した。平成4年8月田中氏は日中国交回復20周年記念行事で北京を訪れた。平成5年12月75歳の田中は体調を崩して入院し帰らぬ人となった。
(完)

筑波子 月次絶句集 「梨花春」

2012年04月20日 | 漢詩・自由詩
江村淡白梨花春     江村淡白 梨花の春

夜色沈沈酌酒頻     夜色沈沈 酒を酌む頻なり

獨上桜台遠脂粉     獨り桜台に上がり 脂粉を遠ざけ

人生三省避埃塵     人生三省 埃塵を避く


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(韻:十一真 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)