ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 坂上康俊著 「平城京の時代」 岩波新書

2012年04月04日 | 書評
律令制天皇集権国家がスタートし天平文化が咲き乱れる奈良時代 第8回

3)平城遷都 (1)
 日本の古代歴史とはイコール天皇史みたいなところがある。庶民はまだ歴史の主人公になっていないのだから仕方ないが、それにしても誰が天皇になるかが貴族にとって最大の関心事で、それを巡る争いが権力闘争であり政治であったらしい。さて唐の律令を参照しながら国家の仕組みをつくってきた文武天皇は707年にあっけなく25歳で亡くなった。天武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)はまだ7歳に過ぎなかったので、天武天皇の母が即位して元明天皇となった。皇位継承が円滑に運ばないときに、女帝が中継ぎに立てられる慣習があり、女帝を立ててそれを援護する体制がキングメーカーたる藤原家の常套手段であった。元明天皇即位の時点で、天武天皇の皇子には、穂積親王、長親王、舎人親王、新田部親王、長屋王らがいた(この中で藤原家の血が入っているのは、新田部親王、長屋王である)。天皇の母は皇族でなければならいとする皇族直系派の考えでは、これらの有力な親王が多数いる中で、文武天皇と藤原宮子の間の子供である首皇子が即位するのには大きな抵抗があったと思われる。元明天皇の即位の宣命には、天智ー持統ー草壁ー元明と続く系統は天智天皇の令を「不改常典」と考えて守り抜く決意が述べられている。8世紀は皇統を天智・天武の直系を正統とする時代であった。

 元明と元正天皇は中継ぎ女帝として立ったが、施策は平城遷都、和同開珎の発行、「古事記」、「日本書紀」の完成、養老令の編纂と画期的な出来事が多い。慶雲4(707)年に藤原京から平城京への遷都が諮られた。平城遷都の理由は大宝の遣唐使の見聞から来ているようで、「周礼」に範をとって、内裏を中央北端において朱雀大路が中央を別つ都の配置に影響されたようだ。ただそれだけで立派な藤原京を捨てる理由としては納得できないが、貴族の趣味は分らない。和銅3(710)年に平城京に遷都した。和銅開珎はどうも流通しなかったようで、「蓄銭叙位令」という買官制度まで作ったが、記念のメダル以上のものではなかった。元明と元正天皇の時代には「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が完成し、「風土記」の作成が命じられた。(713年) 古事記は天皇家の私的な読み物で、元明天皇が幼い首皇子の帝王教育の教材として作ったという説が有力である。「日本書紀」は貴族役人を相手に講読会が開催されているが、古事記にはその記録がない。「日本書紀」は飛鳥浄御原宮の天武天皇が681年川島皇子と忍壁皇子に「帝紀および上古の諸事」を筆録させる詔をだして以来、推古9(601)年を「辛酉革命の年」とみなし、それから1260年前に遡って神武即位年と定めた。数百年の寿命の天皇が何人もいたり、欠史八代を設けるなど弥縫策が目立つ。神話の想像力不足からきたお粗末ではないか。これらの編纂事業で主導権を握っていたのは藤原不比等である。
(つづく)

読書ノート 吉川真司著 「飛鳥の都」 岩波新書

2012年04月04日 | 書評
聖徳太子から天武天皇へ 律令制中央集権国家の確立 第10回

3)近江令の時代 (3)
668年高句麗が滅んで、唐のユーラシア東部の支配は最大版図を実現した。このとき唐の倭国征服計画は既に始まっていたと見るべきであろう。670年新羅文武王は高句麗遺民の唐への反乱を助け高句麗支配をはかり、百済全土の支配を完成した。こうして新羅はしだいに唐と訣別して、朝鮮半島統一に向けて動き始めた。この年に天智天皇がなくなり、倭王国はまた難しい局面となった。大船団を組んだ唐の使いが筑紫にきて新羅攻撃への支援を要求して帰った。大友皇子は今度は東国の美濃・尾張に徴兵令を出したとき、天智天皇の弟大海人皇子は吉野カら美濃の野上に逃れて大友皇子への反乱の兵(壬申の乱)を挙げた。大海人皇子は美濃・尾張の兵をかき集めて大友皇子を破り、672年飛鳥の後岡本宮に入った。673年大海人皇子は浄御原宮で即位し天武天皇となった。天智政権と天武政権には政治体制の違いは無い。天武は天智の政権をそのまま引き継ぎ、実施してきめ細かな制度整備が深耕されたというべきであろう。それは唐と新羅の対立が激しさを増し674年新羅征伐が行なわれた。676年唐は安東都護府を平城から遼東へ退却せざるを得なかった。これをもって新羅の朝鮮半島統一という。
(つづく)

読書ノート 佐藤幹夫著 「ルポ-認知症ケア最前線」 岩波新書

2012年04月04日 | 書評
認知症ケアを担う人が地域と連帯し切り開く先進的取り組み 第12回

4)在宅での看取りを支えるために
 2007年厚労省は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を示したが、認知症高齢者の終末期医療に関しては、日本医師会、日本救急医学会、そして日本老年医学会今の合意形成には至っていない。高齢者の疾患の特徴は、①複数の疾患を抱えていること ②非定型的な症状で一筋縄には処置できないこと ③治療を拒否して障害が残り、死に至りやすいことである。高齢者の終末期を「積極的な医療行為がないと生命の維持が不可能であり、医療行為を必要としなくなるような回復は見込めない状態」と見る医師がいる。すると生命活動の基本である、食べる、飲む、呼吸するという行為が出来なくなる事を終末期ではないかということだ。日本老年医学会は「病状が不可逆的かつ進行的で、最善の治療で進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避となった状態」とする。認知症患者の終末期を狭義に定義すると、①認知症である ②意思疎通が困難か不可能である ③嚥下が困難か不可能である ④前期の症状が不可逆的であるとする。患者本人の意思が確認できなくなると、家族か代理人が意志を表明し医師はそれにしたがって治療行為を行なう。すると意志を代表できる家族とは誰であるかという問題が起きる。またそれを法制度としてどうするかはまだ議論も始まっていない。

 東京都の高齢者率は2015年に24%となると予想されている。65歳以上の高齢者の12%が認知症で、認知症高齢者の66%は居宅である。認知症高齢者を誰が看ているかというと、子供が50%、配偶者が35%、孫が15%であり、一緒に住む家族がいない認知症高齢単身者は24%となっている。訪問看護・介護、居宅介護支援事業を展開している(株)ケアーヅは2007年よりNPO法人「白十字在宅ボランティアの会」を立ち上げた。認知症高齢者の終末期には何らかの身体的疾患で死に至るが、その4割は肺炎と気管支炎であるという。特に寝たきりになると、思いがけないほど早く顛末を迎えるという。認知症の進行は医療依存度(抑うつ、記憶障害などの治療)は中期から下降線を辿り、代わりに肺炎や呼吸不全、嚥下障害など身体疾患の医療依存度が大きくなるそうだ。認知症の方の環境を変えることは大きなダメージを与える。環境が変わることで、あっという間に亡くなる方が多い。家族にとって医療的観点が入ることで介護がスムーズになることが多い。自宅で看取るにはディサービスに支えられて、訪問看護による看取りができる。しかし訪問看護師は就業している看護師全体の2%しかいないし、訪問看護に医師は同行しない。したがってどこまでやれるかはわからないが、訪問看護の実績を積みながらネットワークを作る取り組みが続く。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「春日村居」

2012年04月04日 | 漢詩・自由詩
菜圃江邊春一村     菜圃江邊 春一村

旗亭橋畔杏花繁     旗亭橋畔 杏花繁し

喧喧鳥雀聲環屋     喧喧たり鳥雀 聲は屋を環り
 
寂寂残梅影映門     寂寂たり残梅 影は門に映ず


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(韻:十三元 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)