律令制天皇集権国家がスタートし天平文化が咲き乱れる奈良時代 第8回
3)平城遷都 (1)
日本の古代歴史とはイコール天皇史みたいなところがある。庶民はまだ歴史の主人公になっていないのだから仕方ないが、それにしても誰が天皇になるかが貴族にとって最大の関心事で、それを巡る争いが権力闘争であり政治であったらしい。さて唐の律令を参照しながら国家の仕組みをつくってきた文武天皇は707年にあっけなく25歳で亡くなった。天武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)はまだ7歳に過ぎなかったので、天武天皇の母が即位して元明天皇となった。皇位継承が円滑に運ばないときに、女帝が中継ぎに立てられる慣習があり、女帝を立ててそれを援護する体制がキングメーカーたる藤原家の常套手段であった。元明天皇即位の時点で、天武天皇の皇子には、穂積親王、長親王、舎人親王、新田部親王、長屋王らがいた(この中で藤原家の血が入っているのは、新田部親王、長屋王である)。天皇の母は皇族でなければならいとする皇族直系派の考えでは、これらの有力な親王が多数いる中で、文武天皇と藤原宮子の間の子供である首皇子が即位するのには大きな抵抗があったと思われる。元明天皇の即位の宣命には、天智ー持統ー草壁ー元明と続く系統は天智天皇の令を「不改常典」と考えて守り抜く決意が述べられている。8世紀は皇統を天智・天武の直系を正統とする時代であった。
元明と元正天皇は中継ぎ女帝として立ったが、施策は平城遷都、和同開珎の発行、「古事記」、「日本書紀」の完成、養老令の編纂と画期的な出来事が多い。慶雲4(707)年に藤原京から平城京への遷都が諮られた。平城遷都の理由は大宝の遣唐使の見聞から来ているようで、「周礼」に範をとって、内裏を中央北端において朱雀大路が中央を別つ都の配置に影響されたようだ。ただそれだけで立派な藤原京を捨てる理由としては納得できないが、貴族の趣味は分らない。和銅3(710)年に平城京に遷都した。和銅開珎はどうも流通しなかったようで、「蓄銭叙位令」という買官制度まで作ったが、記念のメダル以上のものではなかった。元明と元正天皇の時代には「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が完成し、「風土記」の作成が命じられた。(713年) 古事記は天皇家の私的な読み物で、元明天皇が幼い首皇子の帝王教育の教材として作ったという説が有力である。「日本書紀」は貴族役人を相手に講読会が開催されているが、古事記にはその記録がない。「日本書紀」は飛鳥浄御原宮の天武天皇が681年川島皇子と忍壁皇子に「帝紀および上古の諸事」を筆録させる詔をだして以来、推古9(601)年を「辛酉革命の年」とみなし、それから1260年前に遡って神武即位年と定めた。数百年の寿命の天皇が何人もいたり、欠史八代を設けるなど弥縫策が目立つ。神話の想像力不足からきたお粗末ではないか。これらの編纂事業で主導権を握っていたのは藤原不比等である。
3)平城遷都 (1)
日本の古代歴史とはイコール天皇史みたいなところがある。庶民はまだ歴史の主人公になっていないのだから仕方ないが、それにしても誰が天皇になるかが貴族にとって最大の関心事で、それを巡る争いが権力闘争であり政治であったらしい。さて唐の律令を参照しながら国家の仕組みをつくってきた文武天皇は707年にあっけなく25歳で亡くなった。天武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)はまだ7歳に過ぎなかったので、天武天皇の母が即位して元明天皇となった。皇位継承が円滑に運ばないときに、女帝が中継ぎに立てられる慣習があり、女帝を立ててそれを援護する体制がキングメーカーたる藤原家の常套手段であった。元明天皇即位の時点で、天武天皇の皇子には、穂積親王、長親王、舎人親王、新田部親王、長屋王らがいた(この中で藤原家の血が入っているのは、新田部親王、長屋王である)。天皇の母は皇族でなければならいとする皇族直系派の考えでは、これらの有力な親王が多数いる中で、文武天皇と藤原宮子の間の子供である首皇子が即位するのには大きな抵抗があったと思われる。元明天皇の即位の宣命には、天智ー持統ー草壁ー元明と続く系統は天智天皇の令を「不改常典」と考えて守り抜く決意が述べられている。8世紀は皇統を天智・天武の直系を正統とする時代であった。
元明と元正天皇は中継ぎ女帝として立ったが、施策は平城遷都、和同開珎の発行、「古事記」、「日本書紀」の完成、養老令の編纂と画期的な出来事が多い。慶雲4(707)年に藤原京から平城京への遷都が諮られた。平城遷都の理由は大宝の遣唐使の見聞から来ているようで、「周礼」に範をとって、内裏を中央北端において朱雀大路が中央を別つ都の配置に影響されたようだ。ただそれだけで立派な藤原京を捨てる理由としては納得できないが、貴族の趣味は分らない。和銅3(710)年に平城京に遷都した。和銅開珎はどうも流通しなかったようで、「蓄銭叙位令」という買官制度まで作ったが、記念のメダル以上のものではなかった。元明と元正天皇の時代には「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が完成し、「風土記」の作成が命じられた。(713年) 古事記は天皇家の私的な読み物で、元明天皇が幼い首皇子の帝王教育の教材として作ったという説が有力である。「日本書紀」は貴族役人を相手に講読会が開催されているが、古事記にはその記録がない。「日本書紀」は飛鳥浄御原宮の天武天皇が681年川島皇子と忍壁皇子に「帝紀および上古の諸事」を筆録させる詔をだして以来、推古9(601)年を「辛酉革命の年」とみなし、それから1260年前に遡って神武即位年と定めた。数百年の寿命の天皇が何人もいたり、欠史八代を設けるなど弥縫策が目立つ。神話の想像力不足からきたお粗末ではないか。これらの編纂事業で主導権を握っていたのは藤原不比等である。
(つづく)