自民党良識派の政治人生 第3回
1) 三木内閣の官房副長官、文部大臣の時代 (1)
海部氏の政治生活は1954年、早稲田大学政治学科に進学して以来、大学の先輩でもあった衆議院議員河野金昇氏の秘書を勤めたことから始まる。これが海部氏のその後の政治人生の方向をすべて決めたことになり、人の交際のきっかけとは実の恐ろしい影響を持つものである。「雀百までおどり忘れず」ともいう。その河野氏の急逝によって、1960年その地盤を引き継いで29歳の若さで衆議院議員となった。1960年自民党青年局学生部長を皮切りに、1966年労働省政務次官、1973年自民党人事局長、1974年自民党副幹事長と順調な政治活動に入った。その間海部氏は「青年会海外協力隊」の創設に尽力した事を誇りにしている。海部氏の終生の恩師は三木武夫氏である自民党の中で、三木派は30人ほどの小派閥であるが、正論を言い国民の人気もあるので主流派にとっては一目置かれる存在であった。1972年の「三角大福」総裁選で、海部氏は三木派の金配り役を担当し、金を貰った人の裏切りに泣いたという。派閥から二重、三重に金を受領する議員はざらにいたらしい。1974年田中首相の「ロッキード汚職」を受けて、イメージ一新を狙った「椎名裁定」によって、三木内閣が生まれた。椎名氏にとって三木内閣はほとぼりが冷めるまでの暫定内閣に過ぎなかったが、三木内閣は政治資金規正法改正、独占禁止法改正、公職選挙法改正に動いた。これが主流派の反発を招いて「三木おろし」が吹いて1976年12月に選挙敗北により退陣した。海部氏はここで派閥政治の「百害と一利」をいう。一利は政治家の人材教育で、百害は金権、談合、横暴、大臣の派閥振り分け、族議員と政財官の癒着など数知れない。
(つづく)
1) 三木内閣の官房副長官、文部大臣の時代 (1)
海部氏の政治生活は1954年、早稲田大学政治学科に進学して以来、大学の先輩でもあった衆議院議員河野金昇氏の秘書を勤めたことから始まる。これが海部氏のその後の政治人生の方向をすべて決めたことになり、人の交際のきっかけとは実の恐ろしい影響を持つものである。「雀百までおどり忘れず」ともいう。その河野氏の急逝によって、1960年その地盤を引き継いで29歳の若さで衆議院議員となった。1960年自民党青年局学生部長を皮切りに、1966年労働省政務次官、1973年自民党人事局長、1974年自民党副幹事長と順調な政治活動に入った。その間海部氏は「青年会海外協力隊」の創設に尽力した事を誇りにしている。海部氏の終生の恩師は三木武夫氏である自民党の中で、三木派は30人ほどの小派閥であるが、正論を言い国民の人気もあるので主流派にとっては一目置かれる存在であった。1972年の「三角大福」総裁選で、海部氏は三木派の金配り役を担当し、金を貰った人の裏切りに泣いたという。派閥から二重、三重に金を受領する議員はざらにいたらしい。1974年田中首相の「ロッキード汚職」を受けて、イメージ一新を狙った「椎名裁定」によって、三木内閣が生まれた。椎名氏にとって三木内閣はほとぼりが冷めるまでの暫定内閣に過ぎなかったが、三木内閣は政治資金規正法改正、独占禁止法改正、公職選挙法改正に動いた。これが主流派の反発を招いて「三木おろし」が吹いて1976年12月に選挙敗北により退陣した。海部氏はここで派閥政治の「百害と一利」をいう。一利は政治家の人材教育で、百害は金権、談合、横暴、大臣の派閥振り分け、族議員と政財官の癒着など数知れない。
(つづく)