存亡の危機に直面した清朝の近代化への挑戦 第8回
2) 動乱の時代(1)
マカオはポルトガルが根拠地としていたのでカトリック色が強かったが、アヘン戦争後イギリスに割譲された香港は、プロテスタントの布教の拠点となった。広州に生まれた洪秀全は科挙を目指して勉強していたが、1834年キリストの教えを信奉して江西省に入り、教団を結成した。1851年予言を信じて挙兵をはかり南京を都とする太平天国を建国した。1850年道光帝のあとを継いだ咸豊帝は、曾国藩に討伐を命じた。アメリカ人ウォードからイギリス人ゴードンを指揮官とする常勝軍の助けを借りて1864年南京を落とした。第2次アヘン戦争後の北京条約(1860年)で清朝に権益を認めさせた英仏は清朝と友好関係を維持し太平天国の乱の鎮圧に協力した。同時に安徽省には自衛武装勢力が結社し、なかでも捻軍は張楽行を盟主として太平天国と連携する気配もあったので、曾国藩は欽差大臣に任命され捻軍鎮圧に従事し、ついで李鴻章は淮軍を率いて捻軍鎮圧に成功し1860年代末には鎮定された。動乱は内陸各地でも起こっていた。雲南はもともとムスリム(回教)「回民」の多いところで、漢と回の対立は激しくなった。林則徐は雲南総督となって、漢回のトラブルの平定にあたったが、回民の杜文秀なる指導者が出て騒乱となった。1857年馬徳新らは昆明を攻めた。1867年杜文秀は昆明を攻めたが果たせず自殺した。清朝が何とかこれらの動乱を平定できたのは、1860年以降英仏と友好関係が維持できていたからである。清朝の軍費は海外貿易による財政的余裕があったからである。
(つづく)
2) 動乱の時代(1)
マカオはポルトガルが根拠地としていたのでカトリック色が強かったが、アヘン戦争後イギリスに割譲された香港は、プロテスタントの布教の拠点となった。広州に生まれた洪秀全は科挙を目指して勉強していたが、1834年キリストの教えを信奉して江西省に入り、教団を結成した。1851年予言を信じて挙兵をはかり南京を都とする太平天国を建国した。1850年道光帝のあとを継いだ咸豊帝は、曾国藩に討伐を命じた。アメリカ人ウォードからイギリス人ゴードンを指揮官とする常勝軍の助けを借りて1864年南京を落とした。第2次アヘン戦争後の北京条約(1860年)で清朝に権益を認めさせた英仏は清朝と友好関係を維持し太平天国の乱の鎮圧に協力した。同時に安徽省には自衛武装勢力が結社し、なかでも捻軍は張楽行を盟主として太平天国と連携する気配もあったので、曾国藩は欽差大臣に任命され捻軍鎮圧に従事し、ついで李鴻章は淮軍を率いて捻軍鎮圧に成功し1860年代末には鎮定された。動乱は内陸各地でも起こっていた。雲南はもともとムスリム(回教)「回民」の多いところで、漢と回の対立は激しくなった。林則徐は雲南総督となって、漢回のトラブルの平定にあたったが、回民の杜文秀なる指導者が出て騒乱となった。1857年馬徳新らは昆明を攻めた。1867年杜文秀は昆明を攻めたが果たせず自殺した。清朝が何とかこれらの動乱を平定できたのは、1860年以降英仏と友好関係が維持できていたからである。清朝の軍費は海外貿易による財政的余裕があったからである。
(つづく)