ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

医療問題: 混合診療の是非を巡る世論

2010年07月15日 | 時事問題
JMM 医療に関する提言・レポートfrom MRIC(2010年7月13日)「混合診療を巡る世論」 清郷伸人 混合診療裁判原告(患者)より

 混合診療とは保険診療に規定されていない診療行為と保険診療行為とを混合して行なってはならないというもので、混合診療を行なうと保険診療行為に対しても医療報酬は支払らわれない。しかしこれは法律には明記されていない。厚生労働省は①混合診療は保険制度が崩壊する、②混合診療を行う医療機関が増え経済格差が拡大する、③ミソ糞一緒の診療となって、診療の質が確保できないという理由で絶対認めないという態度を取ってきた。混合診療を行なった医療機関は保険医を取り消すという認可権で締め付ける。未承認のガン治療薬の併用を望むがん患者らが訴訟を起こした。厚労省の高圧的裁量行政に対して患者や医師から公然と反対の声が上がっている。3つの調査機関が行なった世論調査では、①NPOに本医療政策機構は2008年に難病患者への混合診療には約8割の国民が賛成している、②医療オンラインメデァ「エムスリー」は混合医療の解禁に医師の44%、市民の48%が賛成、③高崎健康福祉大学木村准教授の調査では混合医療の原則解禁には医師の6割、患者の7割が賛成している。医師が賛成する理由は①混合診療は先進的医療を推進、②患者はインフォームドコンセントで医療の質を見抜く力を持っている、③現状でも混合診療は医師側の持ち出しで実行されている、④混合診療を特別料金で徴収すべき、⑤保険医療報酬の削減をトレードオフする為にも混合医療は魅力的という。患者側は混合診療で全額自己負担となるのは国民の医療を受ける権利を奪うものであるとして混合医療に賛成している。医師側は現状では医療の進歩についてゆけない、患者の希望をかなえる混合診療を原則解禁すべきであるという。歯科では混合診療は当たり前で、「保険の範囲内でお願いします」とわざわざ言わなければならない。国民皆保険を実施いている外国でも殆どは混合診療が認められている。国民健康保険制度が崩壊したという話は聞かない。新薬が早く希望する患者に届くように計らっている。混合診療解禁によって医療機関が金儲けに走るという考えはリスクではあるが管理できることである。開業医の利益団体である日本医師会も解禁に反対しているは医師の怠慢を認めることになり理解に苦しむ。

読書ノート 東野治之著 「鑑真」 岩波新書

2010年07月15日 | 書評
鑑真が日本にもたらしたもの、日本で根付かなかったもの 第2回

1)鑑真の唐での活動 (1)

 鑑真は688年揚州で漢の時代から続く名家に生まれた。名は淳于という。唐代の楊州は大運河の起点として長江と黄河を結び、唐の都長安に通じる物資や交通の要所として栄えた港町であった。当時はもっと河口に近く上海のような位置にあったといわれ、東南アジアとの交益の中心でもあった。そのころの唐は5代目の皇帝、睿宗の時代であったが、実権は母の則天武后が握り、武氏は新しく周という国家を建て唐が中断するという革命が起きたが、武氏は熱心な仏教徒であったので、鑑真はよい時代に生まれてというべきであろう。当時の日本は持統天皇の飛鳥時代であった。鑑真は智満禅師について出家し沙弥となり楊州の大雲寺に所属したが、のちに龍興寺に移った。沙弥の守らなければならない戒めは「沙弥十戒法ならびに威儀」という仏典に記されている。唐の国家のために祈願する寺(国分寺)である大雲寺というのが唐の体制宗教となった。鑑真はそこで道岸禅師から「菩薩戒」を受け、僧見習いの沙弥から僧(在家、出家を問わない)になった。

 菩薩戒は大乗仏教に特有なものだ。仏教には大きく小乗仏教と大乗仏教の流れがある。戒律は本来小乗仏教のもので、インドで自治的な僧団を作った僧達が、信仰生活を送るための規範とした戒めや規律であった。戒律には、道徳的な「戒」と、僧団生活を送る規律である「律」に分かれる。小乗仏教では個人が修行を通じて悟りを開き救われることを目的とする為、わずらわしいほどの細かな生活指導(規範)が定められる。それに対して大乗仏教では、すべての生きるものが救われることを目標とするため、他の人に尽くす行いに務め(利他行)、将来悟りを開いて仏となるひとが菩薩である。菩薩には僧俗は問われない。菩薩戒は3つからなり、①生きるための戒め(摂律儀戒)、②良い行いをすることの薦め(摂善法戒)、③すべての生き物のために尽くすこと(摂衆生戒)という「三聚浄戒」とも呼ばれる。菩薩戒の経典「梵網経」では58の戒が立てられる。小乗仏教の戒律には「四分律」という経典がある。戒律は僧団で起った犯罪行為を罰するために、「波羅夷」(追放)から懺悔までの罪を設けている。僧団の自治を目指すことで、戒律が仏教の本質と深い関係になることは(律宗という宗派)、日本のような上からの宗教団体作りを行ったところでは理解されないかもしれない。中国唐においても、インド起源の仏教をどう受け入れてゆくかという問題があった。小乗の戒律と大乗仏教の融合、戒律の中国化という難題があった。中国における「四分律」の研究は、道宣(南山派)の注釈に始まった。道岸も道宣に学んだ。鑑真が南山派の律僧とされるのは当然である。唐代に律といえば「四分律」という考えがかたまった。
(続く)

読書ノート 高橋昌明著 「平家の群像ー物語から史実へ」 岩波新書

2010年07月15日 | 書評
「平家物語」の描く平維盛と重衡のイメージと実像 第12回

3)源平の戦いの中の二人 大将軍として (2)

 1180年から1185年の平家の滅亡まで足かけ6年にわたって戦われた源平の内乱は、単に源平の戦いだけではなく石母田正が指摘するように、「源平の争いと関係なしに地方でも国衙を攻撃して土地台帳を破棄する反乱が広がった」大きな歴史的変革期であったという。国衙・荘園の支配への反抗によるこの内乱を「治承・寿永の内乱」と呼んだ。平家は政権掌握と知行国・荘園の大量集積によって、当時進行しつつあった中央と地方の土地所有制の矛盾を一手に引き受けてしまった。1180年以仁王が平家打倒の挙兵を呼びかけると、反乱は全国に広がった。伊豆で頼朝が、信濃では義仲が、甲斐では武田信義が挙兵した。駿河の富士川では平家は敗れたが、近江・美濃では反平家の討伐戦を続け、南都の寺院勢力を焼き討ちした。翌年2月清盛がなくなって宗盛が惣官の職に任じられ戦線の立て直しを図り、飢饉でしばらく戦線は膠着した。1183年からふたたび大規模な戦闘が起った。北陸の掃討戦で義仲に破れた平家は京都を追われ、安徳天皇を奉じて西海に逃れた。平家は四国中国で一時勢力を盛り返したが、1184年一の谷、讃岐の屋島、長門の壇ノ浦で破れて平家は滅亡した。

 この内乱時の平家の軍制をみてゆこう。平家のもっとも精鋭部隊は追討使に先立って使わされた先制攻撃隊で、伊藤忠清・景家らである。以仁王の乱の時清盛はこの二人の精鋭部隊で反乱を平定した。侍大将の誰が動いたかによって大将軍がきまる。伊藤忠清が侍大将なら大将軍は自動的に維盛であった。富士川の戦いで清盛は大将軍維盛に「いくさをば忠清にまかせさせ給へ」と命令した。宗家は総大将なのでそのような御家人との関係はない。実質の総大将は知盛と重衡であった。重衡には伊藤景家が侍大将となった。源義経と梶原の関係も同じである。
(つづく)

月次自作漢詩 「七月西城」

2010年07月15日 | 漢詩・自由詩
木槿花開榴火紅     木槿花開き 榴火紅に

陰雲漠漠夕陽空     陰雲漠漠 夕陽空し

喚親燕子遊簾外     親を喚ぶ燕子 簾外に遊び
   
欲雨蛙児落水中     雨を欲す蛙児 水中に落つ

●●○○○●◎
○○●●●○◎
●○●●○○●
●●○○●●◎
(韻:一東 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 ブラームス 「室内楽曲集ー3」

2010年07月15日 | 音楽
ブラームス 「室内楽曲集ー3」
①「チェロソナタ 第1番」作品38 ②「チェロソナタ 第2番」作品99 
ピアノ:フィリップ・エントレモント チェロ:ハーレ・ヤン・ステゲンガ
DDD 2000 BRILLIANT

第1番のチェロソナタは1865年の作品で製作に4年間をかけている。ブラームスの作品は発酵に時間がかかり、なかなか評価が出てこない。第2番は1886年の作品でようやく熟練した味となったようだ。