「平家物語」の描く平維盛と重衡のイメージと実像 第5回
清盛は1160年参議正三位となり、内大臣、太政大臣に進んだ。後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の五代の天皇の時代に院制を主導し、源頼朝から「天狗」と綽名された。清盛は後白河の室建春門院(清盛の妻時子の姉平滋子)の子である憲仁親王(後の高倉天皇)即位を図るという点で、後白河上皇と利害が一致した。清盛は大病を患い出家したが回復し、六条天皇を降ろして高倉天皇を即位させた。そして娘徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させた。清盛は摂津福原に引きこもって法衣姿で六波羅を通じて政界を操った。平家一門の惣領となった六波羅に陣取る嫡子重盛は国の軍事警察権を司った。ただ平家一門の宮廷での発言権はあまり高くはない。それは朝廷内の有職故事や伝統的行事を司れないからである。天皇家の政治とは殆ど行事・祭式化していたからだ。したがって親平家の公卿を操って院に働きかける方式であった。著者はこの時期の福原と六波羅の二拠点で構成された平家の権力を「六波羅幕府」と呼んだ。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。こうして権力を一挙に握った平家が、反平家感情の集中攻撃を受けるのは当然であったといえる。反平家の乱が次々と計画され、1177年「鹿ケ谷事件」がおき平家と後白河院との暗闘が表面化した。1180年清盛は後白河院の政権を奪取し、院を無力化するクーデターに成功した。そして同年安徳天皇を即位させ、清盛は外戚という摂関家の地位を得たが、「以仁王の乱」が起きたので、京の反平家勢力の暗躍を嫌って遷都し天皇を福原に移した。これが「平家新王朝」といわれる。1180年8月には頼朝の挙兵となり源平合戦という内乱の始まりとなった。これで大体舞台背景の解説は終わり、平家一門の没落の歴史と維盛、重衡の実像に迫る準備が出来た。
著者は平家の一族の実像に迫るというが、見てきたわけでもないので結局は実証的歴史学でいう文献の解釈となる。ただ著者が主張したい実像とは平家物語のイメージから逃れて迫りたいということである。すると文献としては文学作品「平家物語」以外の史実を猟歩することになり、なにが史実らしいかを推測することである。歴史を研究するためには同時代史料によるわけであるが、古記録、古文書という断片的な史料のお世話になる。またストーリーのある編纂された後世の歴史書も利点がある。
(つづく)
清盛は1160年参議正三位となり、内大臣、太政大臣に進んだ。後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の五代の天皇の時代に院制を主導し、源頼朝から「天狗」と綽名された。清盛は後白河の室建春門院(清盛の妻時子の姉平滋子)の子である憲仁親王(後の高倉天皇)即位を図るという点で、後白河上皇と利害が一致した。清盛は大病を患い出家したが回復し、六条天皇を降ろして高倉天皇を即位させた。そして娘徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させた。清盛は摂津福原に引きこもって法衣姿で六波羅を通じて政界を操った。平家一門の惣領となった六波羅に陣取る嫡子重盛は国の軍事警察権を司った。ただ平家一門の宮廷での発言権はあまり高くはない。それは朝廷内の有職故事や伝統的行事を司れないからである。天皇家の政治とは殆ど行事・祭式化していたからだ。したがって親平家の公卿を操って院に働きかける方式であった。著者はこの時期の福原と六波羅の二拠点で構成された平家の権力を「六波羅幕府」と呼んだ。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。こうして権力を一挙に握った平家が、反平家感情の集中攻撃を受けるのは当然であったといえる。反平家の乱が次々と計画され、1177年「鹿ケ谷事件」がおき平家と後白河院との暗闘が表面化した。1180年清盛は後白河院の政権を奪取し、院を無力化するクーデターに成功した。そして同年安徳天皇を即位させ、清盛は外戚という摂関家の地位を得たが、「以仁王の乱」が起きたので、京の反平家勢力の暗躍を嫌って遷都し天皇を福原に移した。これが「平家新王朝」といわれる。1180年8月には頼朝の挙兵となり源平合戦という内乱の始まりとなった。これで大体舞台背景の解説は終わり、平家一門の没落の歴史と維盛、重衡の実像に迫る準備が出来た。
著者は平家の一族の実像に迫るというが、見てきたわけでもないので結局は実証的歴史学でいう文献の解釈となる。ただ著者が主張したい実像とは平家物語のイメージから逃れて迫りたいということである。すると文献としては文学作品「平家物語」以外の史実を猟歩することになり、なにが史実らしいかを推測することである。歴史を研究するためには同時代史料によるわけであるが、古記録、古文書という断片的な史料のお世話になる。またストーリーのある編纂された後世の歴史書も利点がある。
(つづく)