ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

鳩山家の資金提供 名目転々

2009年12月12日 | 時事問題
朝日新聞 2009年12月12日5時32分
実母の資金提供、贈与?献金? 当局、課税判断難航も
 偽装献金から発覚した鳩山由紀夫首相側に対する実母(87)からの巨額の提供資金は、課税対象の贈与なのか。先に修正申告を「宣言」した実弟の鳩山邦夫・元総務相に引きずられる形で、首相も修正申告の「検討」を口にした。申告の打診があれば、国税当局は事実認定を進め、課税対象かどうか判断することになるが、政治献金ではないかとの指摘もあり、一筋縄では行かなそうだ。

貸付、贈与であれば追徴金の経済処理ですみ政治家の傷にはならない。すでに虚偽記載したとされる元公設第1秘書は在宅起訴されているのだから、金の性格は政治家の資質問題である。

内閣府 2010年はGDPプラス成長 デフレは続く?

2009年12月12日 | 時事問題
朝日新聞 2009年12月11日23時44分
GDP実質成長率1%台で調整 2010年度見通し
 内閣府は2010年度の政府経済見通しで、実質国内総生産(GDP)の伸び率を、前年度比1%台とする方向で調整に入った。08年秋の「リーマン・ショック」以降の世界同時不況で、09年度まで2年続けてマイナス成長になる見通しだが、10年度は3年ぶりのプラス成長を見込む。

朝日新聞 2009年12月11日21時12分
「4~6月期からデフレ状態だった」 内閣府報告書
 内閣府は11日、日本経済の現状を分析した年次報告書「日本経済2009―2010」を公表した。政府は11月に「デフレ宣言」をしたが、物価統計をさかのぼって分析すると、4~6月期から緩やかなデフレ状況に陥ったとしている。
報告書によると主要先進国でデフレになっているのは日本だけ。日本はサービス業の賃金が下落傾向で物価を押し下げていると指摘している。

不思議な現象 普通はインフレ気味で経済成長となるのに。「雇用なき経済成長」の延長線上のことか?

文藝散歩  旧約聖書の世界

2009年12月12日 | 書評
ユダヤ民族のカナン移住からローマ時代までの民族史 第3回

序(3)
 「知恵文学」は「詩篇」、「箴言」、「雅歌」、「コレントの言葉」は西欧文学に深い影響を与えたのであるが、歴史との関わりが薄いように思われるが、その背景にはイスラエルの歴史を主題にしたものが多い。ここに旧約聖書の殆どの文書はイスラエル・ユダヤの歴史に密接に関連した内容を持つ。しかし旧約聖書に述べられた事は全て史実かというと、それはユダヤ人の見た信じた民族の運命であって、必ずしも史実ではない。運命と神の審判つまり「救済と災いの歴史」という風に解釈してきたのである。東洋的な「諸行無常」ではなく、あくまで「自分達の行為とその結果」という現実直視型である。当時のカナンの地(パレスチナ)はメソポタミアとエジプトの2大文明の狭間にある辺境の地に過ぎなかったが、軍隊や商隊の通過する要衝の地でもあり、常に侵略の対象であった。つまり自立することの難しい地である。ロシアとフランス(ドイツ)に挟まれた東欧の地に似た政治状況である。旧約聖書に書かれた内容を裏付ける聖書外文書(特にエジプト側やシリア・ペルシャ側)が不足しており、「死海文書」や「ダビデ碑文」などの考古学的発見が断片的に出てくるが、旧約聖書の解釈はいまでも「仮説的性格」にとどまらざるを得ない。
(続く)

歴史散歩 石母田 正著 「中世的世界の形成」 岩波文庫

2009年12月12日 | 書評
土地所有を巡る古代寺院東大寺と武家の戦い 第9回

第2章 「東大寺」ー国家鎮護大寺院の「不輸不入制」寺領の拡大 (2)

 1033年板蝿杣を庄園として立券したことは、国衙の課役を免除された「本免田」から「出作地」という普通の庄園経営に移行したことを示す画期的な施策であった。国衙との抗争という知恵比べで、東大寺はあらゆる不正と不法、姦計を駆使して無能な国衙を欺いて公田を寺領に変えていった。そして1174年には院宣をえて黒田庄の「不輸不入制」を確立した。板蝿杣の庄園化から黒田庄の「不輸不入制」の確立までの140年間の東大寺の課題は、「杣工」=庄民の出作した公領をいかに一円寺領化するかにあった。国衙の反対する論点は黒田本庄25町の「不輸不入制」は認めるが、その庄園四至内の公田に作出した土地には税負担を、庄園四至外の公田に対しては税負担と国役を義務付けるというものであった。国衙(税務署)の言い分は住民居住地決定主義である。それに他する東大寺の言い分は庄民は寺の人間(寺奴)だから、庄民の所有する土地は東大寺のもので、国家鎮護寺である東大寺に対する課税や国役は認めないという強引な主張であった。庄民の属性決定主義といえる。神の使いには税金を課すことは出来ないという古代神権思想で強弁した。これを「寺奴の論理」という。庄園を本免田として一部容認する事自体が土地の国有制からなる律令制の崩壊になるのだが、国衙の論理はそこは慣習法として私有を認めて領地主義から課税する法理である。古代法である古代奴隷制の律令制は、中国の「均田制」の輸入でもともと理念上の普遍法として成立し、出発点の時点で現実の土地所有形態と矛盾していたのだから、これが慣習法と調整を取るということは政治上の問題である。古代の律令制と仏教は観念上の産物で、古代支配階級の国家理念であった。それが時代とともに変質し現実と擦り合わせが行われる時、古代理念と現実との抗争が起きるのは当然である。東大寺は古代理念を振りかざして、変質した古代貴族の矛盾をつけば正論となるのである。「泣く子と正論には勝てない」とはこのことである。
(続く)

読書ノート 岩井克人著 「資本主義を語る」 ちくま学芸文庫

2009年12月12日 | 書評
資本主義は本質的に不安定 第12回 最終回

対談2:柄谷行人・岩井克人 「貨幣・言語・数」 (2)

 古典派経済学とマルクスは「労働価値説」を発見した。マルクスは最期まで労働価値説を信じていた。古典派から出たハイエクの自由至上主義がアメリカ金融資本を生み破綻した。貨幣は強いようだが、その決済を無限に先送りする。バランスシートで毎年決算はしない、フローシートがプラスになってさえいれば良いとする自転車操業である。時々決算を迫られるときがくる。それが恐慌である。市場における売り買いは他者とのコミュニケーションの問題で、交換媒体としての貨幣の問題は別の次元である。貨幣の起源は、共同体間の取引において属人的な「信用」を不要とし、貨幣そのものに「信用」が与えられている利点を生んだからだ。信用を云々する時間もない取引を可能とした。すばらしい発明品である。いわば信用という信仰を全員が認めた時に成立した。そういう意味で宗教と貨幣は、「最後の審判」と「決済日」という類似性を持つのである。そしてどちらも永遠に延期する事ができる。レーニンが言う様に「革命のための最上の方法はインフレを起こして、信仰(幻想、価値観)を破壊する事である」 革命やナチズムはインフレの後にやってきたのも歴史の示すとおりである。マルクスは労働価値説を徹底的に信じて「価値形態説」に進んだが、「金」の価値につまずいて不完全に放棄してしまったが、「信用」において価値記号説を展開する中で、無価値なものでも貨幣として皆が信じて使えば価値を持つという考えに到達した。貨幣と信用という宙吊り構造が成立したのである。マルクスの「剰余価値」は資本→商品→資本’(増殖)において、(資本’-資本)が剰余価値であった。こうして産業資本主義が拡大することは広く認めるところである。自己増殖する資本の運動は「自己」の差異化と同じである。経済は市場における自己差異化運動とさまざまな経済外部要因との間の相互作用である。バブル崩壊とは自己差異化が永遠に続くものではない事を示した。資本主義の外部とは歴史の始まりにおける「貨幣」の成立という奇跡のことである。