ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

現代「楢山節考」無残! 家族も行政も「姥捨て山」

2009年04月19日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月19日3時2分
11人あてなし、親族迎え1人だけ たまゆら火災1カ月
 入所者10人が死亡した群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」の火災から1カ月。焼け出された12人のうち、親族が迎えに来て別の施設へ移ったのは渋川市の女性(85)1人だけ。ほかの11人は「たまゆら」の関連施設に一時身を寄せるなど、いまも落ち着く場所が定まっていない。身寄りがなく何らかの障害がある人たち。今後の生活への不安は消えない。

生活保護老人施設   家族が捨てたのか、自分が捨てたのか、孤独な終末

フィギュア国別対抗 浅田真央華麗な演技で1位 200点を越す高得点

2009年04月19日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月18日23時5分
浅田真央フリー1位 フィギュア国別対抗、日本は3位
 フィギュアスケートの世界国別対抗戦最終日は18日、東京・代々木競技場で女子とペアの自由があり、国際スケート連盟(ISU)が初めて主催したフィギュア団体戦で米国が60点で優勝した。日本は、女子で浅田真央(中京大)が201.87点の高得点で1位になったが、50点で3位だった。

茂木健一郎著 「欲望する脳」 集英社新書

2009年04月19日 | 書評
今や茂木さんは哲学者 脳から人間存在の本質に迫る 第1回

序(1)

 この本は「青春と読書」という雑誌に2005年5月から2007年4月まで2年間連載された。合計24回、1回分は四百字原稿用紙10枚相当であろう。新書版で2007年11月に集英社から刊行された。若い人を相手にした読書の進めのような内容なので、「人間存在の本質は・・・」という文脈が何度となく出てくる。その度ごとに私のような人間は「ドキッ」とする。最後の審判で「you are guilty]と宣告され、判決文を聞き逃すまいと必死に聞き耳を立てている私は何物だろうか。そんなことが分ればとっくに「死んでも可なり」である。分らないから生きているようなものだ。若い人はさぞ新鮮な面持ちで聞いているのだろう。
 著者茂木健一郎氏は云うまでもなくいまNHKでモテモテの脳科学者である。何回も茂木氏の著書を紹介してきたので、いまさら茂木氏の略歴は紹介する必要はないだろう。しかし本書の末尾に書かれている人物紹介では、この人の本職はわからない。ソニーという企業の研究所の研究員らしいが、他に大学の客員教授を兼ねており、テレビで売れっ子解説者でもあり、まともにソニーという会社に通っているとは思えない。さすがソニーという企業は懐が広い。こんな人間を遊ばせて給料を払っているのだから。昔あった三菱化成「生命科学研究所」も同じような開かれた研究所で、企業の利益のみを追求するところではなかった。殆どの企業は世知辛い「企業秘密」(世界に誇るような秘密があればいいのだが、ないことがばれると恥をかくので秘密にしているだけ)で研究の囲い込みをやっている。そしていまや茂木健一郎氏は文化人になった。本書では哲学者になった。ウイキペディアで茂木健一郎氏を「クオリアまでをも含んだすべての現象を扱いうる拡張された物理学を志向している。著書『クオリア入門』は心も自然法則の一部であるという表題から始められており、意識のほんとうの科学を目指すという自身の方向性をはっきりと明示している。また茂木は脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起しているという独自の作業仮説をとり、そこからクオリアが持つ(であろう)何らかの数学的構造を見つけることが出来るのではないか、として研究を行っている。」と紹介されている。
(続く)

文藝散歩 戦記文学 「信長公記」 第23回

2009年04月19日 | 書評
信長公記 卷14(天正9年 1581年) その1

 正月の諸侯年賀の挨拶は中止、御馬廻衆だけの馬揃えも雨で中止。安土に御馬場を築く普請奉行に菅屋九右衛門ら三名を任命した。1月3日武田勝頼が高天神城を囲むと云う噂が立ったので、中将信忠卿は清洲城に居陣した。高天神城の南の横須賀城に水野ら3名の武将を派遣したが、結果として何事もなかった。1月15日は左義長の行事に用いる爆竹行列が安土城下で盛大に行われた。1月23日惟任日向守に都で御馬揃をするお触れを全国に出させた。2月20日上洛し、本能寺を宿とする。2月28日都にて、御馬揃(軍事パレード)が華やかに盛大に行われた。全国の諸侯がきらびやかに飾った武将と馬の行列が内裏東の馬場を行進した。3月5日には禁中より内裏内で御馬揃を見たいと云う御所望があって、選りすぐった名馬500騎が行進した。筆者はこのパレードの記事を細かに記載している。

 都で御馬揃えで地方が留守になっている間に、3月9日加賀松倉城の上杉氏の武将河田豊前が越後から長尾喜平次を呼び寄せ、佐佐内蔵佐を入れてあった小井手城、ふとうげ城を攻めてきた。佐久間玄蕃らの活躍でこれを退けたが、3月10日信長公は安土へ帰り、15日柴田修理らに越中能登を攻略するように命じた。軍が越中に陣を敷いたが、24日には長尾・河田らは小井手を引き払って帰国したので戦闘は無かった。3月25日徳川家康は武田勝頼に奪われた高天神城を攻め、680人の首を討って勝利した。これにたいして武田勝頼は動かず、高天神城を見殺し始末になった。3月28日能登七尾城に菅屋九右衛門を差し遣わした。
(続く)