ブログ 「ごまめの歯軋り」

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年俸100万から200万円アップで、世界的な教授を招聘できますか 

2008年02月14日 | 時事問題
asahi.com 2008年02月14日15時01分
東北大、「抜群教授」に特別手当 最高月20万円
東北大学が新年度から、優れた業績をあげた現役教授を「抜群教授」に選び、月給を最高20万円上乗せする。国立大では初めての制度といい、学外から優秀な「頭脳」を獲得するとともにその流出を防ぎ、世界最高水準の大学を目指す。正式な称号は「ディスティングイッシュトプロフェッサー」。教育や研究、社会貢献などの業績がきわめて顕著で、将来も中心的な役割を果たすことが期待される教授を任命する。

文部省の姑息な手 鼻の先のにんじんになるか、自由を奪う縛り手になるか
 日本が経済や産業工業で世界一流になれたのは優れた人材とその育成機関である大学の貢献である。古い言い方で「大学の自治と自由」があったからだ。ところが1990年以降「失われた十年」で競争原理の導入という政策のお陰で、「効率の悪い、何をやっているのかわからない大学の改革」がすすみ、「競争的研究資金」というシステムで見識のない官僚の作文に支配される哀れな研究者の集団になった。1990年は学問に自由が日本から消えた大きな転換点となった。いまや大学には金の奴隷か仙人しかいないといわれる。文部官僚が大学支配を強めた結果である。

 大学や独立法人研究所は官僚に決めたテーマに沿って研究費を申請する。研究費は「競争的研究資金」として各省庁に申請するが、「社会的に有意義な研究」として官僚のストーリに合致するテーマにしか金は下りない。研究結果は必ず「成功」しなければならない。こうして研究者は独創性のある研究が出来なくなってゆくのである。研究者の良心にそって官庁のストーリーに合わない結果を報告すると二度と研究費は頂けない。官僚から馬鹿にされた大学の研究者は研究の創造的部分まで官僚に売り渡してしまっている。競争原理のおかげで大学の存在意義がなくなった。研究意図やレベルが民間企業と同じになってしまった。


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GDP  堅実な増加 内閣府統計

2008年02月14日 | 時事問題
asahi.com 2008年02月14日13時20分
日経平均、大幅上昇 GDP伸び好感
14日の東京株式市場は、日経平均株価の午前の終値が前日比364円74銭高い1万3433円04銭と、3日連続で上昇。午後も大幅に上昇し、午後1時の日経平均株価は同453円74銭高い1万3522円04銭と、取引時間中としては5営業日ぶりに1万3500円を超えた。午後1時の東証株価指数(TOPIX)は、前日比39.85ポイント高い1325.20。

asahi.com 2008年02月14日08時59分
GDP、年率3.7%増 07年10~12月期
 内閣府が14日発表した07年10~12月期の国内総生産(GDP)速報によると、物価変動の影響を除いた実質GDP(季節調整済みの値)は前期比0.9%増(年率換算3.7%増)で、2四半期連続のプラス成長になった。

asahi.com 2008年02月14日00時56分
国内サブプライム損、年末3カ月で6千億円に倍増
 金融庁は13日、米国の低所得者向け(サブプライム)住宅ローン問題に絡み、国内の金融機関の07年12月末時点での関連金融商品の保有状況などを発表した。相場の下落を受け、売却損や評価損などを合わせた関連損失の総額は、9月末時点の約2800億円から約6000億円へ倍増した。同庁は「金融機関の自己資本比率などに照らせば、十分に対応可能な水準であることは変わらない」としている。
証券会社などは含まない。 サブプライム関連資産の保有額(簿価ベース)の総額は、約1兆5000億円に増えた。

政府はGDPは堅実に増加、サブプライムローン損失は対応可能と楽観的な見方
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読書ノート 上田篤著 「都市と日本人」ーカミサマを旅するー 岩波新書

2008年02月14日 | 書評
都市とはカミサマがいる場所である。国つくりに貢献した人がカミサマ 第2回

まず都市とは何だろうか。「情報の生産の場」という定義が一般的である。そして情報を独占するのが国であれば都市は権力が存在するところである。上田氏は「昔々情報生産の担い手はたいてい神さまだった」とのっけからわけのわからないことを断定される。村落の権力者は最新情報を使って生産をおこない諸々の建築を行う。権力者イコール神と考えれば上田氏の言も理解できる。「そもそも都市とは神さまのいる場所、つまり神殿のあるところ」というセリフは実は梅棹忠夫氏の言葉である。これが本書のメインテーマで且つ結論である。本書でいろいろな事を取り上げられるが、一貫して流れるテーマは「そもそも都市とは神さまのいる場所、つまり神殿のあるところ」というテーゼである。たしかに古代文明であるシュメール文明には神殿を持つ集落即ち都市遺跡が見つかるが、これは殆ど全ての古代文明に当てはまるであろう。中国の「周礼」にも「東に宗廟、西に社稷、南に朝廷、北に市場」という都市の構造がしるされている。多神教のギリシャ・ローマ文明でもすばらしい神殿を残している。一神教イスラム都市の同心円的な都市の中心にはモスクがある。欧州の一神教のキリスト教都市の中心には広場があり教会が立っている。求心的都市構造である。南米のインカ文明の空中都市の宮殿には祭を行った宗教的場所がある。日本の弥生時代の集落吉野ヶ里遺跡でも祭の遺跡がある。イギリスではセントポール大聖堂とビッグベンという象徴的な特定の建築物は何処からでも見えるように戦略的眺望が保証されている。フランスではノートルダム寺院とエッフェル塔である。都市の中心に神殿があるということはある程度納得できるのである。昔は人々が拠るべきは神のいる神殿だったのだろう。

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読書ノート 中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」 岩波新書

2008年02月14日 | 書評
「自分のことは自分で決める」という声が、次世代型福祉を生んだ  第2回

障害者、女性、高齢者、患者、不登校児童、引きこもり、精神障害者など、社会的問題点を抱えさせられた少数の集団(マイノリティー)に生活自立運動や解放運動が1970年代から始まり、1980年代に運動の大きな盛り上がりがあって、1990年代に社会的制度や国の支援体制が整ってきた。これまで障害者や高齢者の生活自立支援事業とは国や市町村の温情的庇護主義的サービス(パターナリズム)と見られてきた。あくまでサービスの受給者は受け身で、官が良かれと思うことをやるという不備だらけのサービスのことであった。その考えを根底から覆したのが「当事者主権」と言う考え(パラダイム転換)である。当事者とは私の現在をこうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうでは新しい現実を作り出す構想力を持ったときに始めて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。当事者主権はなによりも人格の尊厳に基づいている。誰からも侵されない自己統治権即ち自己決定権をさす。「私のこの権利は誰にも譲ることはできないし、誰からも侵されないとする立場が当事者主権である」と定義されるのである。社会的弱者といわれる人は「私のことは私が決める」という基本的人権を奪われてきた。2000年より施行された介護保険は「恩恵から権利へ」、「措置から契約へ」と大きく福祉パラダイムが変化した。当事者主権はサービスという資源をめぐって受け手と送り手の新しい相互関係を築くものである。

当事者主権の考えは障害者自立生活運動で鮮明に打ち出された。人々は孤立して生きているのではない。みんな何らかの相互依存する人々の集まりである。障害者は社会の人々と協力し合って自立して生活したいのである。障害者は自立するために他人の手を借りる。それは恥ではなく権利である社会を作ることが目的である。今の社会は障害者の要求に答えていないから障害者は「問題を抱え込まされる」のである。交通アクセス運動はかなり実を結んできたが、社会の設計をユニバーサルデザインで行えば、「障害者」(障害と感じる人)は減らすことが可能である。

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文芸散歩 「今昔物語 」 福永武彦訳 ちくま文庫

2008年02月14日 | 書評
平安末期の説話文学の宝庫 さあー都大路へタイムスリップ  第2回

前書き(2)
「今は昔・・」で始まる、今昔物語は31巻からなり、天竺(第1巻から第5巻まで)・震旦(第6巻から第10巻まで)・本朝(第11巻から第31巻まで)の三部構成である事は先に述べたが、訳者福永武彦氏は、似たような話を類別して第1部(世俗)、第2部(宿報)、第3部(霊鬼)、第4部(滑稽)、第5部(悪行)、第6部(人情)、第7部(奇譚)、第8部(仏法)に分けておられる。氏の分類に従って作品を紹介するのが私の務めである。話の最後の一、二行に付け足しのような抹香臭い教訓を垂れるところがあるが、話の面白さには何の関係もないので無視する。

日本文学にもこの今昔物語に材をとった作品は多い。有名なところでは芥川龍之介の「鼻」、「芋粥」をはじめ、杉本苑子「今昔ファンタジア」や、田辺聖子「今昔まんだら」、そして訳者福永武彦氏は「風のかたみ」を始め19作品を今昔物語から取っている。訳者福永武彦氏は本書を1964年河出出版より発刊した。ちくま文庫本は1991年の発刊である。福永武彦氏は異色の知的作品の作家として知られているが、むかしは韻律詩の習作をし、長い療養生活の間に作品を書き、学習院大学仏文科教授のかたわら作家活動をしていたが1979年に亡くなった。

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