ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

無数の点がある平面でも交差しない1本の直線が引ける

2007年05月08日 | 時事問題

高校時代に京大受験数学雑誌を読んでいたら表題の数学問題が出されていた。京大受験の数学問題は難解で通常の受験数学では解けない問題が時たま出される。まるで受験生の数学素質を試すような問題である。京大の理学部の物理や数学の授業もしかりで、分かろうが分かるまいがお構いなしにのっけから高等数学が駆使される・・・・そんな環境であった。表題の問題は通常の受験技術を学んだ私には何のことか分からないままに放置しておいた。ところが今日鬼怒川の土手をサイクリングしていたら、突然この問題が頭に浮んで走りながら考えて突破口が開けた。何のことはないデジキントの無限問題で考えれば解らしきものが得られた。

さて解に入る前に仮定が必要である。線は幅を持たず、点は大きさを持たないことを仮定する。そして平面上の位置(x、y)は整数ではなく無理数で表現される。つまり1.0と1.01は違う大きさであることを仮定する。上の図でまず2点(点1、点2)がある。点1と点2を交差しない直線を引くのは簡単である。点1と点2には距離があるのだから(なければ同一点になる)点1と点2を結んで中点で直交する線(直線1:黒色)を引く。次に意地悪な人がいて、直線1上に点3を想定するとする。点3を避けて直線1を中点を軸に回転させ直線2(青色)を引くことは出来る。今度さらに意地悪い人が直線2の上に点4を置いたとする。直線2をまた点4を避けるように点3の方向へ戻すように回転する。点4と点3の間に差がある限りその間に新たに直線3(赤色)を引くことは可能である。このようにアルキメデスと亀の問題のように無限に近くなっても差がある限りその間にまだ数値がある。意地の悪い点を避ける直線を引くことは無限に可能である。アルキメデスと亀の問題は時間の観点を考えればトリックであるが、本問題は位置は無限に分割できるために直線を引くことは理論的には可能といわざるを得ない。無論、点と線には大きさは無いというトリックはあるが。

ネット殺人事件とドストエフスキー的様相

2007年05月08日 | 時事問題
観念の地獄的実相がバーチャル空間で踊りだしている

最近日本でもネット自殺や殺人が増えている。首を絞めて人が苦しむのを見ることで興奮すると言う殺人事件があった。また人を殺してみたかったという理由で殺人を試みた事件もあった。これは精神異常者の空想と言うにはあまりに社会的である。とくにネットをサーフィンする者に現実と空想の区別も怪しくなったように見える。バーチャル(擬似)空間/社会を売り物、食い物にする商売が増えたことが背景にある。コンピュータ社会が生み出した犯罪である。たとえば「2チャンネル掲示板」で「自殺」を検索すれば「死にたい。」と言う書き込みが簡単に見出せる。ネットは確かに便利なのだが、そういうことを書き込めば、無数の悪い奴らが利用しようとうごめくことも事実である。死にたい仲間を募る前に心療内科にいって薬を貰うことを薦める。

ここにドストエフスキー(1821~1981)の「罪と罰」と言う小説がある 荒筋書きは以下である。主人公ラスコオリニコフは貧乏な大学生で殺人の夢想に取り付かれ、金貸し婆とその妹リザベータを殺害する。その殺人を酒びたりの廃人マルメラドフの娘で娼婦のソーニアに話してしまい、逮捕されシベリア流刑になる。ラスコオリニコフの分身の性格を与えられた享楽以外は無性格で、自殺でこの世とおさらばしたスヴィドウリガイロフと酒びたりで事故死したマルメラドフらの告白は将に19世紀末現象という退廃的虚無的な「こうなるともう娑婆じゃありませんな。あの世ですな」と言うセリフに象徴される、死でしか逃れられない虚無、無自己となんなんだろうか。

「罪と罰」はドストエフスキーの作品にしては比較的登場人物も少なく構成も複雑怪奇ではない。むしろ分かりやすい小説に類するとしても、なぜラスコオリニコフが虚無的無人格者なのか。「善悪の彼岸」(ニーチェの超人主義)という犯罪哲学から殺人を夢想するにいたる論理的経過はまるでない。現実的事実の外的因子は何もないのである。これが19世紀後半のツアー専制ロシアの社会的現実と縁もゆかりもないことは承知しなければならない。しかしツアーを縛り首にして選挙にはゆかず酒を飲み行く革命ロシアの庶民の非近代的・社会的未熟さは理解しておきたい。
「主観の極限までいこうとする性向と、客観の果てまで歩こうとする性向が背中合わせである危険なリアリズム」、「空想が人間の頭の中でどれほど横暴で奇怪な情熱と化すのかという可能性を作者はこの作品のなかで実験した」

そういう意味でドストエフスキーの「罪と罰」を読めば、ドストエフスキーは急に現実味を帯びてくる。19世紀的疎外・孤独・虚無を21世紀的無生活時代に置き換えればどちらも非現実的夢想に埋没してゆく姿が見える。観念は人間の人間たる由縁で、文明を作り出す力であったが、同時に戦争をも最近はゲームのようにバーチャル化し、巨大な悪魔を人間の心の中で養うものだ。観念の制御は生活の現実感しかない。