ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

ブッシュⅡのイラク戦争 よくぞ使った84兆円 軍需産業はさぞうれしかろ

2007年02月03日 | 時事問題
asshi.com 2007年02月03日12時17分
米のイラク戦費関連、7000億ドル超える
 ブッシュ米大統領が5日に発表する08会計年度(07年10月~08年9月)の予算教書で、イラク戦費を中心とした「テロとの戦い」関連で2400億ドル(約29兆円)規模の新たな歳出を要請する、と米メディアが2日伝えた。これを加えると、イラク関連の歳出総額は7000億ドル(約84兆円)を超え、ベトナム戦争(最近の通貨価値に換算すると約5700億ドル)の戦費を上回る見通しだ。

ブッシュⅡのイラク戦争は戦争規模に比して金の使いすぎ

砂漠に爆弾をぶち込んで軍需産業を儲けさせる方策はアダムスミスの自由主義経済の競争と効率の原則から逸脱している。近代経済学のケインズの雇用創出論そのものである。経済刺激のためには無意味と分っていても公共工事をやる日本と同じ構図である。ブッシュⅡになってからアメリカの軍事予算は膨張の一途にある。軍需産業にとって戦争は消費行為である。それにしてもブッシュⅡの軍事予算は大きい。米国の全国防費の70%がイラク戦争に費やされる予定だ。金融資本が世界からかき集めたドルもなくなりそうだ。

広瀬隆著 「アメリカの巨大軍需産業」よりアメリカの国防費を見てみよう。
アメリカの軍需産業を動かすエネルギーは巨大な国防予算にある。金がなければ勝てないことは自明の理であるが、そのためアメリカという国は建国から今日まで兵器産業につながる財閥によって資本が受け継がれ支配されてきた。アメリカの国家予算に占める軍事費の割合を歴史的に見ると、建国時にはイギリス戦争のとき80%、メキシコ戦争のときも80%、南北戦争のとき90%となった。20世紀になると世界的な戦争が頻発し第一次世界大戦時は60%、第2次世界大戦時には80%、朝鮮戦争時には60%、ベトナム戦争時には45%、1980年冷戦時には30%になり2000年時点で15%になった。一見軍事比率が下がってきたように見えるが、これはアメリカの経済規模の拡大による分母効果である。
そこで国防予算を絶対値で見ると、ベトナム戦争後1980年代にカーター政権とレーガン政権において国防予算は飛躍的に拡大し3000億ドルとなった。冷戦終了後1990年代には国防費は著しく縮小したしたが、2000年ブッシュⅡ政権下では国防費は上昇に転じ2005年予算では3300億ドルとなった。これは日本円に換算して36兆円、日本の国家予算の40%を超えた。


2月3日 今日は節分です

2007年02月03日 | 時事問題
asahi.com 2007年02月03日07時51分
京都・八坂神社で舞妓が豆まき
 京都市東山区の八坂神社で2日、「節分祭」が催され、舞妓(まいこ)や年男、年女の人たちが豆まきをした。この日の京都市内の最高気温は平年より1.7度低い6.6度。舞妓は春にちなんだ舞を奉納し、華やかな雰囲気を盛り上げた。

今日は節分です。恵方は北北西だそうです。我が家でも巻きすしを作って、豆まきをする予定です。

文藝書評 小林秀雄全集第18巻「表現について」より「表現について 」

2007年02月03日 | 書評
表現について

 この論文の主題はフランス印象派詩の再建と音楽との関連についてである。音楽についてその運動の歴史を概説したのは初めの数頁で、ほとんどはフランス印象派詩の運動についてである。

「美の形式を確立した絵画や音楽の古典派の時代(17,18世紀の全般的なヨーロッパ芸術の状態、絵画では古代ギリシャを理想としたラファイエット、レンブラント、音楽では調和の取れたポリフォニーの美を追求したモーツアルトまで)に対して浪漫派の時代は表現の時代であるといえます。」

「ベートーベンは自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であった。今日から見てベートーベンが古典派と浪漫派との間を結ぶ大天才と映るのも、音と言葉、音の運動の必然性がもたらす美と、観念や思想に関する信念の生む真との間の驚くべき均衡。その最高の範例としてシンフォニー第9番」

「浪漫派音楽の骨組みは、どんな複雑な美妙な感動でも情熱でも表現できるという磐石の信頼はワーグナーに至って頂点に達し、その饒舌と舞台効果ため音楽を破壊する寸前まで来た。」

 小林氏の説は概ね当たっているように思えるが、これを追求しだすと仮説はすぐに破綻するのが常だ。なぜなら絵画の運動と詩・文学の運動はフランスでは似ているように見えるが、音楽はオーストリアとドイツ・イタリアが中心なためおのずと自立運動の目的も時期もずれている。またベートーベンを形式から古典派に入れる人もおり、浪漫派はシューマンやシューベルト、メンデルスゾーンからとする意見もある。そして浪漫派がそして音楽が破綻したのは20世紀音楽の無調性音楽からであろう。ワーグナーではまだ破綻の兆しというよりは標題音楽に堕落したというべきで、その後も名作曲家マーラーや民族音楽、ジャズ、オペラなどが輩出している。形式から逃れようとして形式を破壊し美が無くなった。美の無い音楽なんて教師の説教みたいなものでクソ食らえ。さらに印象派とか言うような音楽は存在しない。ドピッシーを例に出すが何であれが印象派なのか首をかしげる。要するにいいたいことは、音楽、絵画、文学には各々限界と役割とから来る自立運動が違うので、一時的相似現象はあっても相関はない。関連つけようとすると破綻が来るだけだ。小林氏の話は面白いが議論に堪えない。

 音楽との関連つけはこれくらいにしてさて本論のフランス印象派の運動について見てみる。浪漫主義の動きは18世紀の啓蒙思想という批評精神から生まれ、理性を尊重する主知派、個人主義、自然主義であった。ビクトル・ユーゴの浪漫主義は饒舌な告白文学であって、詩はその中ではちきれんばかりに自由な散文形式へ逸脱しようとする傾向にあった。ボードレールは音楽的要素を詩に導入しようとして「悪の華」を著した。フランス語では「悪の華」が音楽的なっているのかどうか私には不明にして分からない。

 人は何を表現したいのだろうか。苦痛をか、欲望をか、意思希望をか、憎しみをか、理想をか、真理をか人さまざま。小林は「生活しているだけでは足りぬと信じる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意思的な作業である。」文筆家は表現だけが目的化した一種の化け物か。中身の無い自己をぶら下げたワープロなのか。表現とは生活の中での自己を生かす道だ。黙っていてはいけない。何もよくならない。声を上げよう。まるでどこかの政党のスローガンなのか。読まれることを期待しない表現はどうなるのか。