ブログ 「ごまめの歯軋り」

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環境書評 小野芳朗著「水の環境史―京の名水はなぜ失われたか」PHP新書(2001)

2006年12月11日 | 書評
1)小野芳郎 岡山大学工学部助教授のプロフィール氏は京都大学工学部衛生工学教室(現環境工学)出身の水処理屋である。京都の水道政策の決定過程を明らかにすることで現在及び将来の政策に関する予防的措置を求めるのが本書「環境史」の目的である。このような目的意識を持って氏は京大人文科学研究所の吉田光邦教授の主催した「19世紀の情報と社会変動」研究班に参画し、また氏の恩師である末石富太郎滋賀大教授の環境史研究会に触発されて本書が企画されたといえる。

2)環境史の可能性
環境史とは聞き慣れない言葉であるが、環境学の時間軸ではない。著者の目論見は、利害が絡み政治的判断の多い環境政策の政策決定力学を明らかにすることにある。いわば政策科学のジャンルに属することらしい。環境史の思想的・文明論的考察についてはかならずしも著者の得意分野ではなく、すでに本誌書評欄で紹介した鬼頭秀一「自然保護を問い直す-環境倫理とネットワーク」(ちくま新書 1996)、加藤尚武「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリー 1991)に適切な解説がある。しかし著者はいわゆる京都学派の民族学・文明史観に導かれ、環境保全を図るための科学的・技術的・経済的体系としての環境学方法論を目指しているようだ。本書を読む限りその環境史方法論の何者かが明確に論述されているとは言い難く、いわば環境政策・行政史の枠を超えていない。

3)京都上水道政策決定の歴史

京都は古来山紫水明の地と呼ばれ、水の質を基とする豆腐、湯葉、茶、酒などの豊かな文化を生んだ。その水とは地下水であった。この地下水が使われなくなり枯渇に至ったのは実に1895年(明治28年)に始まる京都近代化事業とコレラの流行に遡る事ができる。

①琵琶湖疎水開削と京都近代化事業
琵琶湖疎水開削事業は日本海から瀬戸内海を結ぶ(敦賀-塩津-琵琶湖―大津-疎水-岡崎-鴨川-伏見-淀川-大阪-瀬戸内海)物資の動脈を作ることにあった。1883年(明治16年)に疎水開削が計画され水力発電所建設を組み込んで完成した。1895年(明治28年)より京都近代化事業として上水道、道路、琵琶湖第2疎水の計画が始まり、下水道建設論を排して1906年(明治39年)に起工が認可された。この計画により現在の京都市街の枠が定まり、琵琶湖疎水は飲料水確保のための水道として機能することになった。

②衛生問題と上水道政策
京都近代化事業には道路建設と下水道整備事業をセットにする都市計画論が同時に進行したが、下水道には国庫補助がおりないという財政上の問題と下水道は殖産につながらないという京都市政者の意見が優勢を占め、第2琵琶湖疎水開削による水量確保により電力需要に答えるという殖産政策と水道料金の徴収による収入増をセットにした上水道優先論が産業界の後ろ押しにより決定された。つまり衛生問題をだしに使って産業振興策が決定されたとも言える(これは現在の多目的ダム補助事業と同じ構図である)。この琵琶湖を水源とする上水道計画の実施により、京都の地下水脈は放棄され長く下水に汚染されて戦後は工業の地下水大量くみ上げによりついに枯渇した。京都の名水文化は実質的に途絶した。いまや京都は古都の風貌をなくした薄汚い地方都市に過ぎなくなった。欧州の古都保存か米国のコンクリート都市文明の選択かにもつながる文明問題である(京都へのレクイエム)。 なお衛生学的に結果論をいうと、京都の上水道が完成したのが1912年(明治45年)でありコレラはそれ以後終息したが、赤痢・腸チフスの消化器系伝染病の減少は昭和20年以降の下水道普及を待つ。衛生学的には両方が完成することが必要で、片方の優先論ではないことが明確である。


小林秀雄全集第7巻「作家の顔」よりトルストイの「芸術とは何か」

2006年12月11日 | 書評
トルストイの「芸術とは何か」

トルストイの「芸術とは何か」はこれまでのトルストイの主調子を全面否定し、全ての芸術分野を手当たりしだい破壊しようとするものであった。小林によると「結論が実践であるような人間は、このように振舞うほかはなく、それが精神で飽和した人々に野蛮な印象を与えたに過ぎない。」とこの書物の非凡さを指摘した。「つまり日本では人道主義と理解する人々の群れは何もトルストイの正体を見ていないのだ。これを理解するにはロシアの近代小説のリアリズムの本質を考えなければならない。ゴオゴリからチェホフまでロシアには近代リアリズムは西欧のそれとは異なり、問題小説、傾向小説しかなかった。ドストエフスキーのリアリズムもしかりでトルストイにも有ったのは素朴な内的なトルストイといおう個性であった。」
トルストイの自省録である「わが懺悔」によるとトルストイの改心といわれる「芸術とは何か」で言いたかったことは、「宗教上の意識が芸術の内容を決定する。人が経験した気持ちを誠実に表現できれば、必ずそれは独創的ならざるを得ず、人々に感染せざるを得ない。」このトルストイの考えは私にはさっぱり理解できないが、小林氏のトルストイの理解も論理的は納得できるものではない。小林氏独特の直感的理解によるものか。
ということで先の文学者の思想と実生活において期待したトルストイの思想らしきものは理解不能でした。あしからず。



書評  永井均著 ウィトゲンシュタイン入門  ちくま新書(1995年1月初版)

2006年12月11日 | 書評
現代哲学の鬼才 「写像・文法・言語ゲーム」哲学入門 
語りえぬものこそ重要だ


 初めから白状しておこう。私は哲学書は系統的に読んだことはない。入門書、概説書、科学者兼哲学者(デカルト・パスカルなど)の書物ぐらいである。哲学とは逆説とたわいもない比喩、例題から高等な結論を導き出してくる摩訶不思議なアートという理解でしかない。そしてその結論は現実には何の実利もない屁のようなものだとたかをくくっていた。数学のような公理命題という観点から見ても、哲学の命題は曖昧で恣意的でトリック的で、とても足したりひいたりして結論が出てくるとは思えなかった。誰がやっても同じ結論が出てくるわけではないので信じられない分野、科学では理解の及ばない分野と思っていた。たしかに哲学は科学ではなくヒトの心(究極的には人の倫理)を扱う分野である。しかし近年、教育や社会的問題も科学的手法で考える方向である。しだいに文科系の分野は狭くなってきている。文科系の最後の牙城が哲学だということで、理科系の人間として哲学をバカにしていただけで、別に勉強していたわけではなかった。最近「脳と心」の問題を考えるにいたって、文科系の学問も傾聴してみる価値がありそうだと思うようになった。

なぜウィトゲンシュタイン哲学入門書を読むに至ったかというと、脳科学に関する書物を読んでいたとき、同じちくま新書で茂木健一郎氏の「意識とはなにか」の中に、ウィトゲンシュタイン哲学の「語りえぬものこそ重要だ」という言葉が紹介されていた。茂木氏の著書の展開に深くは関与しておらず僅か一行に満たない記述であったが、この逆説に満ちた言葉が私を痛く刺激した。そして酒井邦嘉著 「言語の脳科学」を読むと、「文法はヒトの脳のメカニズムから生まれるもので、教わるものではない。それを科学的に解明することが言語科学の今後の使命である」と文法のアプリオリティ性が書いてあった。現在では言語学のアプローチには、伝統的言語学、発達心理学、言語哲学、脳科学などの境界領域型アプローチがなされている。本書はウィトゲンシュタインの「写像・文法・言語ゲーム」哲学入門であると書いてあるので、言語哲学書かなと思った。脳の言語を生む機能とこの哲学がどこかで繋がるのではないかという期待観があった。さてその期待観はどうであろうか。残念ながら私は哲学的思考に慣れていないので、書かれたことの半分も理解できていない心配が残る。

本書が書きたかったウィトゲンシュタイン哲学の神髄

本書の前書きで永井氏は「本格的な哲学学説に関して、問題をその神髄において共有できるかどうかが重要である。哲学では答えを出すことが本質的な事ではなく、いままで誰も指摘しなかった問題に気がつくことが偉大なのだ。哲学をその神髄においてて批判したり乗り越えることは不可能である。」とのっけからパンチを浴びせてきた。ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の独我論は「私の意識だけが唯一本当に存在するもので、他の一切は私の意識へのあらわれである。他人は私が本当に言わんとすることを理解できてはならない。」というが、ここにいう私とはウィトゲンシュタインその人ではなく脱人格的自我である。これを超越論的(先験的)主観という。彼の哲学の基本図式は「語りうるもの」と「語りえぬもの」との対比からなるが、独我論をめぐる論議はすべて「語りえぬもの」に属する。ここがウィトゲンシュタインの天才的な目である。語りえぬものについては当然言及はないが、語りえるものとそうでないものを明晰に分別してゆけば自ずから語りえぬものを追い詰めることになる。ウィトゲンシュタインは生涯の前期、中期、後期を通じて、この「語りえぬもの」を「論理形式」、「文法形式」、「生活形式」として展開した人であった。そして問題を提起し続ける自己否定の人であって、生涯の自己矛盾を指摘しても意味のないことである。変転極まりない哲学の徒であり「思想の価値は勇気の量で決まる」というのだからしかたがない。

ウィトゲンシュタインてどんな人

さて恐らくウィトゲンシュタインて誰も知らないでしょうから「ウィトゲンシュタインてどんな人」という質問が必ずあるでしょう。簡略に紹介すれば、人となりは「変人」の一言で済みます。それでは困るので、すこし生い立ちから述べます。1889年オーストリアの首都(オーストリーハンガリー帝国)ウイーンでハプスブルグ家健在のころに生まれました。オーストリア鉄鋼業界の大物のユダヤ人の父を持ち、ユダヤ系(3/4)の五男として誕生した。兄四人のうち三人は自殺し、彼自身も自殺の誘惑と闘い続けたようだ。母親はピアニストでウイーン社交界の中心であった。兄弟は絵画、演劇、音楽家に進もうとしたが父の反対で相次いで自殺した。当時のブルジョアジーの子弟教育のやり方として、彼は小学校には行かず家庭教師について勉強した。そしてリンツの高等実科学校で工学系の勉強をし、ベルリンの工科大学で機械工学を学んだ。卒業後、高層気象観測所に勤めた後、さらにマンチェスター工科大学で航空工学を学んだ。そして興味は数学基礎論や論理学へ移り、イギリスのラッセルのもとに入って論理学を専攻した。このときラッセルは「はじめ彼は天才なのか変人なのかよく分からなかった」と言った。1913年彼は初期の代表作「論理哲学論考」を書いたがなかなか出版できなかった。1914年ノルウェーで思索を重ねていたが、第一次世界大戦に従軍した。従軍中は相当の戦果を上げたといわれるが、その間も「草稿」を書き真理関数や写像理論などを深めていった。そして1918年「論考」が完成した。しかしそれでも「論考」の出版はかなわず、教員養成学校に入学して1920年小学校の教員となった。この間彼の精神状態は最悪で自殺をしなかったのが不思議なくらいだそうだ。そして難産の末1922年に「論考」の出版が日の目を見た。また1926年小学校での体罰がきっかけで小学校教員を首になった、時に37歳であった。ここからがウィトゲンシュタインが哲学者としての出発になる。

ウィトゲンシュタイン哲学①前期 「像」   主題:論理形式   主著書:「論理哲学論考」
「論考」は限界設定の書であるといわれるのは、カントの「純粋理性批判」と対比されるからである。カントの直面した問題はウィトゲンシュタインの問題と同系であった。「論考」の主題は言語の可能性の条件を明らかにすることであった。ウィトゲンシュタインは「およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない。そして重要なのは実は後者の書かれなかった事です。」
世界について語るとき、言語と世界は内的関係(写像形式)にあり両者は論理形式を共有しているものである。この先験的に語りえぬものの一つである論理形式を主題にするのが超越論的(先験的)哲学である。「語りえぬものが変わったとしても(限界が変わる)世界が総体として別の世界になるとしても、そのことによって世界の論理形式(真理関数)が変わることはない」とウィトゲンシュタインが言う時、それは無数の偶然が重なったとしても其処を支配している論理(言語形式、人間の論理形式:脳のシステム?)は変わらない、選択だけが人生だということになる。

ウィトゲンシュタイン哲学②中期 「文法」  主題:文法形式   主著書:「哲学的文法Ⅰ」
ウィトゲンシュタインの中で、直接的に把握されるべき「内的関係」、つまり語りえぬものが論理から文法へ広がってきたのが中期の特徴である。つまり「論理から文法へ」そして「写像から検証へ」というように、問題は文法に一元化されることになった。
「命題の意味とはそれを検証する方法のことである。命題の真偽を知るにはその命題の意味を既に知っていなければならない。それは文法規則に属することがらである。」とウィトゲンシュタインが言うのはそのことである。文法は自律的であるということだ。


ウィトゲンシュタイン哲学③後期 「言語ゲーム」   主題:生活形式   主著書:「哲学探究」
ところがウィトゲンシュタインは中期の文法規則という先験的絶対的な論理を自ら葬り去ろうとする(自己破壊)いわゆる「言語ゲーム」という展開になった。つまり先験的に働く文法という考えが、しだいに崩壊してゆく過程である。言語ゲームは規則から成り立っているのではなく盲目的な慣習によって出来ているという見解である。ゲームをすることはルールがなくても出来る。言葉の意味は使用することである
これには永井氏も手を焼いておられるようで「何を語りえぬものとして放遂しようとしたのか肝心かなめのこの点が理解できない。後期の観点から見れば、中期の独我論排除はそれ自他存在してはならないものである。」という風に、ウィトゲンシュタインの恣意性を指摘されている。
「言語ゲームとは子供が言語を使用し始める際に撮る言語形態のことである。言語ゲームは決して語られない、対象化されない生活形式の中にのみ基盤をもつのである。」というのがウィトゲンシュタインの定義である。したがって言葉の意味を決めるのは言葉を使うヒトの心に浮ぶものではなく、むしろ生活の形態である。このルールとプレイの逆転こそが後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念の最大のポイントである。