ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「日本の祭」 角川ソフィア文庫

2018年04月15日 | 書評
太平洋戦争の只中、日本の神の発見によって柳田民俗学を創始した記念すべき著作 第1回

序 その1

太平洋戦争勃発の直前、昭和16年(1941年)の秋、柳田国男が東京帝国大学全学教養部の教養特殊講座で行った講演がもとになって、本書「日本の祭」が翌17年(1942年)11月に刊行された。聴衆は文系の学生は少なく、理系の学生が多かったという。つまりこれまでこのような問題を聴く機会が少なかった学生を相手に、噛んで含める様に「日本の祭」を説き起こしている。神事の故事来歴を扱うのは専門家の仕事だとしても「一通り国の固有信仰のあり形を知らしめるには、別に十分なる要約がなければならぬ」と目的のために本書を著したという。つまり国民が健全なる常識を養うことは、国民の前途を考えるうえで必要欠くべからざる準備であるという認識があった。専門家の見解も、ここに書いた内容も一つの見方である。うっかり丸呑みに信じてはいけないと批判精神を持つこともあわせて注意を促している。本書の内容は、第1章「学生生活と祭」(祭を学ぶ態度)、 第2章「祭から祭礼へ」(祭の特徴)、 第3章「祭場の標示」(神地)、 第4章「物忌みと精進」(神屋)、 第5章「神幸と神態」(神態)、 第6章「供物と神主」(神供)、 第7章「参詣と参拝」(祭日)からなり、第1章は「序章」で第2章から第6章までの6章が本章の内容である。本書は祭という言葉は「マツラフ」という語と同じように、神の御側にいて、神に奉仕する意味であろう。祈願という意味はついでにという意味で、本来の目的は神と一緒にいるということであった。神=支配者という構図は統一国家形成後の絶対神からくる後付けの意味であり、本来の神とは神=先祖であり、沖縄の民謡に「死んだら神様よ」と同じように、神は無数にいる八百神である。この弥生時代の村落共同体時代の記憶が「我国固有の神」という柳田氏の基本的考えであった。(縄文時代のアニミズムはさらに昔の話で本書では扱わない) 著者は祭の要素として五項目を挙げている。神地、神屋、神態、神供、祭日である。祭りの五要素に入る前に、祭の特徴についてまとめておこう。

① 祭りの重層性: 日本の祭りには重層性が見られる。部落の祭り(一族の祭り)がありそのうえに村の祭りがある。まとめて氏神の祭りと呼ぶこともある。村の氏神に対して一族の氏神を内神と区別する呼び方もある。このような祭りの重層性は地方行政の変更による(特に明治22年に施行された新町村制)。町村合併により従来の村の氏神が格下げになって部落神になり、新たな村の氏神がその上にできた。その時一つの部落の氏神を新村の氏神にしたものや、新しく村の氏神を勧請した場合があった。または複数の部落の氏神を合同して村の氏神にした例もある。これには氏神、産土神、鎮守神の区別に関する複雑な問題である。ここでは神道の事は扱わない。 
② 内神と外神: 自分たちの氏神、産土神のことを内神と呼び、ほかの村の神、他所から持ってきた神などを外神と呼んだ。外神を排斥することなく、隔てなく敬神の気持ちを抱いた。内なる神と氏子の関係は家族みたいなもので神意を聴く必要もなかったが、新しい神は神託を降した。日本の神社には寄り宮、相殿、行逢祭という共同の祭式、末社と言って数々の神の歴史が境内に存在する。まさに時代の変遷そのものを受け入れる素地が開けていた。
③ 物忌みと祭り: 物忌みとは神を祀るにふさわしいように精進潔斎することです。具体的には「オコモリ」のことです。籠ることが祭りの本体なのです。本来は酒食をもって神と共にあるあいだ、一同が御前に待座することが「マツリ」であった。そして神にささげた酒食を、末座におおいて共々に賜わることが「直来」であった。オコモリを全うするには一切の不浄を遠ざけなければならない。それがために精進屋を設ける。頭屋の家を神宿として、注連縄を張り主人以外はそこに入れない、また外来者も入れない。祭りの期間中に、お産や死者の出た家のものを遠ざけることがある。すべての氏子がオコモリを長期間行うと生産活動に支障を起すので、頭屋の主人だけが物忌みを行う。物忌みが厳格なところでは、お灯明を上げ、潮を浴びて潔斎をするとか、他家では飲食はしない、他人が来ても茶や煙草も出さない、夫婦の交わりを断つなどをしたという。
④ 祭りの変遷: 政治経済など実生活から受ける制約によって信仰生活も影響を受けて祭りは変遷した。このことは6) 「参詣と参拝」に述べられている。春秋2階の祭りに神が降臨され、神の恵みを受けてお告げを聴き、五穀豊穣・村内安全を祈願した。「村祈祷」、「村祈願」をおこなっていたが、社会生活が複雑になると村内の利害が複雑になると「個人祈願」が始まった。(現在はこれが主流で、企業隆盛祈願は村祈願の変形であろうか) 個人祈願が普通になると神社のほうが賽銭箱を用意するようになった。賽銭の前は「オヒネリ」といって紙に洗い米を包んで奉納した。米を銭に替えたものもオヒネリという。毎朝参拝という敬神家も現れ、神を祭るための参拝ではなく、神を敬するため、個人祈願するための参拝になった。参詣も簡略され、礼拝するだけの礼式となった。
⑤ 若者と祭り: 東京帝国大学で行った講義の聴衆は学生であったので、祭りに関しては参加者ではなく見物人であろう。しかし氏子として祭りに参加することは青年の義務であり権利であった。神輿を担いだり、獅子舞や神楽の芸能を演じるのも青年であった。戸主になる青年のみの参加を認める制もあって祭りが村落社会の上に持っていた重要性が伺える。古来日本に持ち得た物心両面の生活様式を受け継ぎ覚え込むのも青年の義務であった。家制度が崩壊すれば、その信仰も変化を受けざるを得ない。今や有名な神社の祭典は見物客や参拝者のための観光行事として盛大に行われている。

(つづく)
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文芸散歩 柳田国男著 「小さき者の声」 角川ソフィア文庫

2018年04月14日 | 書評
児童の遊びと言葉から見えてくる日本の昔 最終回

4) 「野草雑記」・「野鳥雑記」

「野草雑記」は、「タケニグサ」という野草の名前の付け方についての蘊蓄です。著者のみならず現在の私たちは野草の名の教育は受けたことがない。柳田氏が喜多見の原の家(今の渋谷区砧)に住んでから、周りの植物草叢は激しく変わったという。萩、山菊、すみれ、杉菜、芒、根笹、竹、そしてタケニグサの興亡が著しかった。ウイキペディアによると、タケニグサ(竹似草、学名Macleaya cordata)はケシ科の多年草で日当たりのよい草原、空地などによく見られる雑草である。語源には茎が中空で竹に似るからというもののほかに、竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって加工しやすいからとの俗説もある。別名チャンパギクともいい、チャンパ(南ベトナム)付近からの帰化植物と思われたためらしいが、実際には日本および東アジア一帯の在来種と考えられている。アルカロイドの一種サングイナリン(Sanguinarine)、ケレリスリン(Chelerythrine)を含み有毒で民間療法で皮膚病や虫さされに使われたが、逆にかぶれることも多く危険である。と書いてあります。日本での名前の付け方は、チャンパギクというところは一つもなく、三重県と奈良県の境で「ゴウロギ」、信州では「ガラガラ」と呼んだ。日本人はいつも嫌なものは濁音にする癖があるので、荒れたところを意味するゴロ、ガラという名をつけたようだ。越後西頸城地方では「ツンボ草」、下総印旛郡では「ドロボノシンヌキ」という奇抜な名もある。「泥棒の尻ぬぐい」という意味である。播磨では「オオカメダホシ」といい、狼がこの草を食べると倒れるという意味である。津久井の山村では「ササヤケ」という。笹の焼けたような色を帯びているからだという。山が崩れたり、水で荒れたりすると何よりも一番早く飛んで来てそこに目を吹くのはこの草である。
「野鳥雑記」は我々が野鳥の鳴く声を聴いてどのように表現したかという、面白くかつ空想力を要する文である。野鳥が以前は人間であり、今では人の心を持ってその思いを我々に語っているという想像上のお話である。以下鳥の名ごとにまとめておこう。
雲雀: 「テンマデノボロウ テンマデノボロウ」、「オリヨウ オリヨウ」
燕: 中国地方「ツチクテムシクテクチシーブイ」
頬白: 関東「イッピツケイジョウツカマツリソロ」 遠江国「ツントイツツブニシュマケタ」 薩摩「オラガトトハ三八二十四」
時鳥: 秋田「アチャトデタ コチャトデタ ポットデタ」 紀州「ホンゾンカケタカ」、「トッテカケタカ」
沓手鳥: 北信州「オットコイシ」 能登・越中「弟コイシ 掘って煮て食わそ」

5) 「木綿以前の事」

この章は「母の手毬歌」でも述べたが、木綿布の普及と利点と弱点(同じこと)を述べたもので、文明とは二面性で見る必要があるということである。芭蕉七分集の付け合いや、「炭俵」にも「はんなりと細工に染まる紅うこん」という木綿の肌触りのはんなりした、美しい染色の良さを読んだ歌がある。「比佐古」の亀の甲に「そめてうき木綿袷の鼠色」とある。それでも芭蕉の元禄初めには江戸の人が木綿といえばこのような優雅な境遇を連想する習わしであった。それが江戸中期には木綿布は江戸市民の間に普及したその理由(利点)を挙げると、①肌触りのよさ、②染色が容易な事で、以前の麻布を圧倒した。木綿の袷に中綿をたっぷり入れると肩腰が柔和になり全体に伸びちじみが容易になった。着こなしが優雅になったということである。それは瀬戸物の白磁、薩摩芋の馬さと匹敵する文明の大改良であったようだ。ただ木綿の欠点は夏の暑さと毛埃(製造時の肺疾患職業病)であった。

(完)
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文芸散歩 柳田国男著 「小さき者の声」 角川ソフィア文庫

2018年04月13日 | 書評
児童の遊びと言葉から見えてくる日本の昔 第7回

3) 「母の手毬歌」

「母の手毬歌」という題名はなんて素敵な言葉でしょう。「良寛さんの手毬歌」とは違った、どんなお話が聞けるのか胸が膨らみます。女の子のお正月の遊びは、羽根羽子板と手毬でした。戦争が起きるまではゴム製の手毬がありましたが、南方からゴムが入手できなくなって、昔の木綿糸の手毬に戻りました。又米軍の爆撃を恐れて田舎に学童疎開の時代になり、思いがけなく昔話や遊びに接する機会が増えました。木綿糸を巻いてこしらえた手毬にさらに色とりどりの糸で巻き上げた美しい糸かがりが流行りました。その芯には綿を丸くして入れて弾むように工夫したものでした。キリシネ、ハタシの糸を繋いで飾ったのです。正月前にはどこの家でも二つか三つの手毬を母に拵えて貰って、夜は枕元に置いて、もういくつ寝るとお正月と指折り数えて子供たちは待ちました。手毬がこのように美しくなったのは、家々に木綿機があって織られる様になったからです。木綿の着物が着られるようになったのは江戸時代も中頃の事です。それまでは麻布の衣類が普通でした。柳田氏の御母堂は、この文章が書かれた時にすでに50年前に亡くなっておられる。いつかは「母の手毬歌」というような文章を書いてみたいという気持ちが、本文を生んだようです。母の思い出に満ちた美しい文章です。全国の手毬歌は明治に大和田氏が収録されている。その手毬唄の中には大きく二通りに手毬唄があり、早い調子の「つき手毬歌」とゆっくりした「揚げ手毬唄」がある。母堂が楽しんでで歌ったのは「揚げ手毬唄」で、玉を放り投げている間に間延びする歌詞が謳われる。柳田氏が憶えておられた母の手毬歌は次の三つであった。「とのは丹波の助三さまよ・・・」、「寺へさしゃげて手習いさせて・・・」、「鎌倉の椿」だという。この「鎌倉の椿」の歌は母の小さい頃武家屋敷に奉公に出ていた時に覚えた歌でかなり古風なので、大和田氏の採集に漏れたものと思われる。冒頭は「あれ見ーいやれむーこう見-やれ 六枚屏風にすーごろく すごろーくに五-ばん負けて 二―度とうつまいかーまくら 鎌くーらにまーいるみーちで つーばき一本見-つけた」と双六遊びです。「そのつーばきだーてのつーばき お寺にもーててそーだてた 日が照-ればすーずみどーころ あーめが降‐ればやめどころ」と続いて「そのあーめに降り込めらーれて お茶もいやいや煙草もいやいあ しょんがいな しゅおんがいな しょんがい婆さん こーとし九ーじゅう九で くーまーのへ よーめりしよとおーしゃる・・・」となる。このしょんがい婆さんのあたりから手毬の手は急に早くなり、歌の調子もアップテンポになる。「しょんがいな」というのは流行唄の囃し文句である。母に捧げるバラードのような優しい文章である。

(つづく)

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文芸散歩 柳田国男著 「小さき者の声」 角川ソフィア文庫

2018年04月12日 | 書評
児童の遊びと言葉から見えてくる日本の昔 第6回

2) 「子供風土記」 その5

8) 鬼事言葉
姉さま遊びは三宅島では「ネザンバ」という。子供が若い花嫁ゴコが家のウバに挨拶する様子を見て真似をする訪問遊びでした。この姉さま人形が遊びに入ってくると、ままごとは食べる遊びではなくなって、言葉の楽しみを味わう場となった。言葉の楽しみは今の子どもよりずっと大きな比重を占めていたようです。そのなかでも神社仏閣の鬼追い行事に少年を参加させた「アブト鬼」はことば遊びとして面白い。全国各地の鬼事述語が「静岡県方言誌」に収録されている。野球規則の「タイム」の言い方の多様性に驚く。ミッキ、マッチ、チョマ、ゴイ、ゴー、タンマ、タンコ、テンマ、オヒマ、マヒ、ベンなどなどである。信州小県郡の鬼きめ詞に「鬼のくるまで 洗濯ジャブジャブ、鬼の来るまで 豆でも炒りましょ、ガラガラガラガラ 石臼ガラガラ、豆はたきトントン」があり、備前岡山では一寸法師の詞「つーちゃこもちゃ蔓の葉、ねんねが持ったらちょっと引け」があります。鬼きめとは子供を並ばせ小さなこぶしの上を指でついてゆく遊びで最後の文句で止った人が鬼になるのです。肥後球磨地方のモウゾウ隠れ(かくれんぼ)の歌に「だあまれだあまれ雉の子 鉄砲かたげがとよっぞ うんともいうな屁もひんな」があります。狐遊びというのは、鬼を山のおコンといってはやし立て、歌の最期で一斉に逃げるのを鬼が追いかけて捕まえる遊びです。讃岐の「オトリコトリ」も鬼事の一種です。強い子を先頭にして皆が順に帯に手をかけ蛇のようにうねり運動をします。それを鬼が尻の子を捕まえようとするのを、皆で複雑な動きをして妨害する遊びです。子買い問答というのは大阪では「子買お子買お 子を買うてなんにする 赤のまんまに魚そえて食わそ」という。越後岩船郡では「猫じゃ猫じゃ」という遊びでは、「猫じゃ猫じゃ どの猫ほしい 後の・・猫ほしいわ」という。欲しい子供の名を指定する遊びです。雀取りもある。子買い問答はもはや鬼ごっこではなく、言葉遊びとなっています。このように児童文化は孤立した別個の文化ではなく、一時代・一社会の文化相を通して見れば子供の遊びが分かります。信濃の子守歌に、おじいさんが囲炉裏の脇で孫の手をもって、「ひいひいたもれ ひがないと この山越して この田をおりて」と歌うのは、一時代昔の火貰いの記憶があるからです。

9) 鹿遊びの分布
「鹿・鹿・角・何本」遊びは近頃まで、九州福岡、四国愛媛、千葉外房、越後、佐渡で行われていた。この鹿遊びは男の子の粗暴な危険な遊びで女の子は参加できなくなっていた。伊予では胴乗りともいった。この遊び言葉も随分変化して、鹿の角という意味も忘れ京都では「ぺスペスこれなんぼ」と唱える。人の背中を打つあてもの遊びよりも胴乗りという運動遊びに変化してきた。そして「跳び箱」の起源となった。また二つの遊びが結合する場合が多い。たとえば石蹴りは東京では「チンチンモガモガ」、関西では「足ケンケン」と呼ぶ。石を蹴ることと片足で跳ぶ運動の複合である。念木・念棒のあそび「ネンガラ」、「ネンガリ」は昔は鉤のついた小枝を使ったのだが、二又に別れた木の枝に特別な霊の力があるという信仰が基にあった。占いの枝という。豊後では鉤の無い鉄で打たせたり、山口県では「キリコ」、「ネコ」が鉤のついたものである。朝日新聞の「子ども風土記」を連載していたら170通の手紙が来たと柳田氏は反響に驚いた。「鹿・鹿・角・何本」遊びは84カ所以上の地(24市・55郡)で見られたが、その資料を表にまとめている。この遊びは九州と四国、とくに福岡・愛媛に集中しており、トビトビに他府県にまたがっていた。遊びの方法は大体馬乗り式である。これを「胴乗り」呼ぶ村もあり、馬飛びの運動に結合したようだ、背中を叩くのは少ない。しかも鹿遊びだということは忘れ、無意味な囃し文句に代わっている例が多かった。大分郡と別府郡では「レイボン何本」という意味不明なことをいっている。他府県では「何本なりや」といった子供が使わない書き言葉に代わっている。

(つづく)
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文芸散歩 柳田国男著 「小さき者の声」 角川ソフィア文庫

2018年04月11日 | 書評
児童の遊びと言葉から見えてくる日本の昔 第5回

1) 2) 「子供風土記」 その4

7) 女児のおままごと

男の子のもぐら打ちや鳥追いなどは単なる遊戯というより、村の共同作業の一部が残っていました。秋田のカマクラという雪小屋にも、以前の鳥追い、御火焚棒がまだ残っていますが、今や女の子がコタツを持ち込んで飲食を楽しむだけになっています。もちろん他の正月小屋でも子供だけの食事をするだけであるが、これには女の子を入れない。天竜川の雛送りのように三月節句の日に河原に莚を敷いて、火を焚き飲み食いする女の子だけの集まりがある。若狭の常神村の「カラゴト」は河原で粥を焚くことです。外で料理・食事行事をする習わしは、美濃「辻めし」、五島「門めし」、紀州「門まま」と言って中元の行事であった。ままごとは盆の行事から来ている。瀬戸内では「餓鬼飯」、浜名湖では「ショウロめし」というとおり、外精霊や無縁仏が家の中に入らないようにするため、戸外で別の台所をつくり食物を作って供養してお帰り願うことが目的の盆(中元)行事であった。この小さな女の子に外精霊の接待をさせることは村の公務と言える。徳島の「盆のままごと」とはこの精霊飯の儀式である。子供組に似た組織が女の子にも存在することが、讃岐小豆島の「餓鬼飯」に見られる。16,17の女子が参与し女の子の集会を行うようである。左義長と同じような組織であった。対馬阿連村では盆の14日に「ボントコ」をする。トコとは釜壇のことである。17歳の女子が首領となって、大きなかまどを二つ土を練って作り上げ、15日には飯を焚いて村の若者連を饗応し、盆踊りと芝居をする。信州浅間ではこれを「カマッコ」という。京都の地蔵盆もこれと似ている。備前の邑久郡ではママゴトを「バエバエゴク」という。バエとは釜の火の形容である。九州では「バエラ」、中部では「バイタ」、「モヤ」、「ボヤ」、近畿では「チチリ」という。ままごとは下総海上郡では「オミッチャゴ」というが「御水屋事」という意味である。安房半島では「ケンゴト」というが「ケ」とは食事の事である。ままごとはしだいにお客遊びの方へ流れていった。富士山南麓では「オコンバ」という。これは今晩わという訪問辞である。徳島県北部では「クバリアイ」(配り合い)、飛騨高山では「クバリゴト」という。甲州北巨摩郡では「オワザッコ」というが、「ワザット」は東北では物を配る詞であった。しるしばかりのものですがという意味である。「コト」とは儀式もしくは祭典という意味である。法事にも使う言葉である。津軽の「ジサイコ」は法事・仏事のことである。加賀の金沢ではママゴトのことを「オジャコト」というが「オジャ」とは御座といういみである。仏事だけでなく訪問者の集まる事も含んでいる。米沢でもままごとを「オフルマイゴト」、伊豆半島では「フルミヤッコ」と呼ぶ。お客遊びを上州桐生では「オキャクサンヤッコ」、大垣では「ゴチソウサンゴト」といい、信州上田では「ヨバレッコ」という。大分市には「オクサンゴッコ」、越後では「オカサマゴッコ」という。甲斐であh「オカタゴッコ」、宮城県では「オカタブツ」といった。主婦の事を「オカタ」というのは中世以降の事であるが、今日の「カアサン」、「カカサン」、「カカ」、「オッカー」などの語源である。主婦がジャジャと呼ばれる秋田ではままごとを「ジャジャやボッコ」という。越前、紀州もそれに近い「ジャジャンコ」、「チャチャボコ」という。未婚の娘をオバコ、婦人のことをおばさんと呼ぶがままごとにも適用されて「米沢では「オバコダチ」、但馬地方では「オバサンゴト」と呼ぶ。上流社会では主婦をオカタというが、常人社会ではウバという。東北ではアッパ、沖縄ではアンマという。信州松本ではお客遊びを「オバゴト」という。薩摩ではママゴトを「バッコ―」と呼ぶ。紀州東熊野尾鷲では「ナコビ」、「ゴコトンボ」という。中国地方では若い女性を「ゴコ」とよぶので、「ゴコトンボ」とはゴコとウバの合成語である。三宅島では「ネザンバ」というのは姉さんと婆さんのことである。子供が若い花嫁ゴコが家のウバに挨拶する様子を見て真似をする訪問遊びであったようだ。

(つづく)


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