Senboうそ本当

広東省恵州市→宮崎県に転居。
話題は波乗り、流木、温泉、里山、農耕、
撮影、中国語、タクシー乗務、アルトサックス。

宮台真司 interviews   2005年  世界書院

2018年05月18日 | 毒書感想(宮崎)

今回取り上げたのは「宮台真司 interviews」という本です。
口の悪い社会学者、宮台真司が1994年から2004年までに語った言葉が400ページのボリュームで収められています。

恥ずかしながら、これまで宮台氏の著作に目を通したことございませんでした。だって難解なんだもん。そんな私がこの本に手を出したのは、たまたま酒の席で知り合った青年(30歳)からの薦めです。YouTubeで「村本大輔×水道橋博士×宮台真司」が絡んだトークが視聴できるので、ぜひ味わってみて・・・とアドレスを教わりました。
      ↓

ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT #18 【AbemaTV】

3人のトークと言うか、喋ってるのはほとんど宮台氏。しかも言ってる内容がちゃんと聞き取れる。日本語だから当然なんですけど、ちゃんと相手のレベルに合わせて 分かりやすい語彙を選んで話してくれてる。切れ味鋭く、しかも面白い。ただしあまり上品とは言えない。 
なんだ、そうだったのか。宮台の言葉に向き合ってこなかった自分を反省、今になって本書を入手したというわけです。 
ただし、中には難解な記述も出てきます。例えばこんな文章
      ↓

アメリカ流の“共同体の再建”とは、近代なるもの、個人主義なるもの、権利なるものを、十分に享受する者たちが、享受可能性を自己破壊させないために、どこに限界設定を設けるかという話です。翻って日本の場合、個人主義の芽生えさえもないのに、個人主義の行き過ぎもクソもないでしょう(笑)。それなのに『アメリカでも個人主義の限界を言っている、よって日本でも個人主義はダメである』なんてことを言う馬鹿が、論壇にはいっぱいいる。

      途中略

従ってコミュニタリアンというと、お父さんお母さんを大切にしようという話だと考えるのは、無教養なのです。無教養と言えば、僕がリベラリズムが大切だ、個人が自由に選ぶことが大事だって言うと、必ず『お前のような奴がいるから共同体が壊れるんだ』と叫ぶ馬鹿が出てきます。でもそれは違う。誰もがその自由を行使して、“選択共同体”をコミットメントすればいいし、それを奨励するコミュニケーションを自由に行えばいいだけの話。           (『SIGHT』 2002年10月26日 ロッキング・オン)

 

教養の足りない私の問題だと思います。上記の文章を噛み砕いて説明しようとすると とんでもなく長文になってしまう。
少なく見積もっても 理解できない箇所が20%。そこは読み飛ばしても十分刺激的です。話題は「教育問題」「援助交際」「政治」「メディアのありかた」多岐にわたります。発表された年代順に編集されています。

以下は本文からの抜粋。
      ↓

 本当に本人のためになる教訓などは、本人が自分の体と心を使って試行錯誤してリスクに抗して、勝ち取ってくるもの。前もって用意されているものではない。だから、「子供のことを思って」遊び場を選ぶ、遊び道具を選ぶ、遊び友達を選ぶ、人生すべてを選んであげる・・・。そういう母親のやり方は実は害悪そのものなんです。
 いま「子供が生きがい」の母親はたくさんいます。その理由は、主婦、特に専業主婦が非常に希薄な存在だから。家事などを午前中で終えると、あとは希薄な時間だけが残る。どこで「濃密さ」を探すかというとやはり子供。そういう人は、空洞化した人生を子供をダシにして補完しようとしているだけ。すごくエゴイスティックな行為だと思う。だから僕は「専業主婦廃止論」を唱えています。

宮台真司さん(社会学者)に聞く
「子供命」の専業主婦が、家族を壊す  (『ダ・カーポ』 1998年6月17日号 マガジンハウス)

 

 

 学校教育が巨大なストレスを生み出すようになった原因は、幾つか考えられますが、日本が多くの先進国と同様に、いわゆる成熟社会と呼ぶべき段階に達したことによって、学校教育に意味を与えていた幾つかの枠組みが消えてしまったということがあげられます。例えば高度経済成長時代に代表されるような時期には、未来は明るかった。人々は、皆、アメリカ的な生活を送りたいと思っているのにまだ送れていないという欠乏感を抱えていて、それを埋め合わせるという共通の夢を持っていました。そういう段階では、今は苦しくても頑張って立派な大人になり未来を建設するといった理念的な目標によって、学校で耐える、我慢して勉強するということを手段的に正当化できました。しかし、成熟社会になると、明るい未来がない。成長の限界は明らかで、かつてのように頑張れば社会も豊かに、会社も豊かに、地域も家族もそして個人も豊かになるということもなくなりました。そして、幸せのイメージ、不幸のイメージも人それぞれに分解していきます。
 このような中では、ここで君が頑張ればいいことづくめだよというように、学校内の苦役を正当化することはもうできません。学校は、子どもにとって、「無意味な箱」でしかなくなってしまいました。

        途中略

 実際にいじめ対策に成功したプログラム、いじめ撲滅に成功した学校というと、例えば福島県三春町のように、個人プログラム・カリキュラムを導入した学校が一方にあります。それと同時に、NHKで取材・報道していましたが、東京都町田市の成瀬台中学校のような例もあります。問題校だったので、非常に優秀な先生たちを集めて、職員会議の回数を重ね、生徒との会合を重ね、面接の回数を重ね、教員たちが超人的な努力をして、いじめを減らしていったのです。
 両方とも、いじめを著しく減らすことに成功しました。しかし、果たしてどちらが現実的だろうかということです。
 成瀬台中学校は、現行の制度的枠組みを完全に温存しているという意味で現実的に見えますが、実際には非常に高度な人材の質を要求しています。教員の人材偏差値という言い方をすれば、人材偏差値六十五以上、七十以上の人間を集めているわけです。ですから、一見現実的に見えるのですが、学校の在り方としてはこれは非現実的です。なぜかといいますと、教員の人材も正規分布しますから、いろいろな教員、ダメな教員も当然います。いじめ対策としてこのようなやり方は、この現実を無視したやり方だからです。
 一方の三春町のほうはどうか。教員は、簡単にいえば普通の人たちです。ところが、制度的な枠組みは今と全く違うわけです。制度的な枠組みを見ると非現実的、今とあまりに距離があり過ぎるように見えますが、ところが実際には現実的なのです。現行、我々が持っている資源、教員の質の中で対処可能な仕組みとなっているからです。  このように、人材に負担をかけないやり方のほうが、現実的なことは論理的に明白なのですが、実際には、既存の制度に利害が結びついた人間、つまり大人がいます。その方々が今は権力を持ち、精度を動かす動かさないということについての決定権を持っていますから、現行の枠組みを変えて・・・という方法が採用されることはなかなかありません。

私の学校救済策  (『総合教育技術』 1998年8月号 小学館)

 

 

 「つまずいちゃいけない」という前提がそもそも誤りです。似たような通念はいろいろあって、親や先生のいうことを素直に聞くのがよい子どもだという言い方がありますが、この成熟社会のなかでむしろ学校に適応している連中ほど社会に適応していない、という逆説的な事態が広がっています。
 たとえば帰国系の子どもとか、いろいろな理由でフリースクールや大検予備校に行っている若者のほうが--今までは確かにこいつは学校に適応できないな、これだったらハブにされるだろうなと思うような自己主張の強い連中が多いけど--社会でうまく生きていけるとぼくは信じています。現在の急激な社会変化のなかで、学校に適応すること、あるいは家も含めて大人の言うことをハイハイと素直に聞くことは、少しもこれからの社会を生き抜く役に立たない。むしろ、親だから、教員だからというだけでその人の話をまともに聞くような子どもは、はっきりいえば「終わって」いるというのがぼくの考えです。
 ぼくの大学の講義は、ちゃんと答案用紙にぼくの講義を忠実に再現しても高い点はあげられない。基本的にはネガティブな評価も含めて、自発的で自立的な評価をぼくのいったことに対しておこなった学生の答案をもっとも高く評価するといっています。そういわないと講義をなぞっただけの答案がいっぱい出てきます。

    途中略

 日本の幼児番組というのはおかしなものが多くて、「みんな仲よし」とずっといいつづけているんです。小学校の先生たちのあいだに配られるプリントなんかでもとにかく協調性が大事だと。これは先進国でいえば日本だけです。
 ほかの先進国では幼児番組がどう作られているかといえば、まず「君はほんとうは何がしたいんだい? ちゃんといわないと、まわりの人に伝わらないよ」というわけです。
 「ぼくのほんとうにやりたいことはこういうことなんだ」 「そうか。君はそれがやりたいのか。でも、君一人じゃそれはできないぞ。だれかに協力してもらわなきゃ。でも、君が何もしなければまわりは君に協力してくれない。まわりに助けてもらおうと思えば、君もまわりを助けなきゃ」と。
 つまり、これはギブアンドテイクでもあるけれども、自分が貢献しないと人からの貢献はもらえない。だから、自分のやりたいことをやろうと思うんだったら、社会に、集団に貢献しなきゃいけない、友だちを助けなきゃいけない、友だちを作らなきゃいけない。こういう順序で教えます。
 「皆同じ」が通用しなくなった日本の成熟社会でも、むしろこれがリアルです。つきあいたくない人間ともニコニコしなきゃいけないのか。そんなことはない。自分に必要な人間と仲よくすればいいわけで、自分に必要でない人間とは適当につきあえばいいだけの話です。

 

学校に適応するとダメになる  (『おそい・はやい・ひくい・たかい』 1998年11月号 ジャパンマシニスト社)

 

 

 などと社会学者の僕が言うぐらいだから、社会学と心理学とは基本的に天敵の関係にあることが分るでしょう(笑)。そうなる理由は、実践的な目標が違うという点に求められます。たとえば臨床精神医学や臨床心理学を例に取ります。
 臨床の目標は、心に問題を抱えている(とされる)人間を、問題を抱えない(とされる)状態にすることです。クライアントを、彼自身と周囲の人々が、問題がないと思う状態に導く。つまり「治す」、その意味で「幸せにする」ことが目標です。
 社会学には、個人を「治す」とか「幸せにする」という目標はない。強いて心理学と比較可能な言語で言えばこうなります。問題を抱えている(とされる)人「たち」がいたとき、どんな社会制度や文化状況が、問題を抱えた人「たち」を生み出すのか、を認識して、そういう制度や文化を変えるにはどうしたらいいか、を考えるのが社会学の目標です。
 となれば、「個人が治ればいい」という臨床との対立は避けがたい。すなわち、ある制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいいよ」という心理学の提言が理にかなっていたとしても、そもそもそうした制度や文化を維持すべきかどうかについて、社会学者は疑問を持たざるを得ないということです。
 たとえば、家族の中に居場所が見つけられない人に、なぜそうなるのかを心理学は語れます。でも社会学の立場から言えば、人は別に、家族の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族を営むべきなのかどうかさえ疑わしい(笑)。人が家族の中に居場所を見つけたがるのが本当にいいのかどうかを根本的に疑うのが、社会学です。

 

「心理学」の社会学的分析
心理学は人を救うか!?    (『エグゼクティブ』 2001年2月 ダイヤモンド社)

 

 

 そこで選挙の話です。日本では、投票の動機づけが、共同体的動員、すなわち土建屋的動員であり宗教団体的動員であり組合員的動員であり続けてきました。典型例を挙げると、前回の地方議会選挙のとき、東京二十三区の投票率がどこも五割を切ったのに、青梅市では七割を超えました。しかも投票所によっては四百~五百世帯もあるのに投票率百パーセントという所が幾つもある。素朴な方は『おお、青梅市民は民主主義に燃えているのか』と早とちりしそうですが、あり得ない。要は自治会長なり、土建屋のボスなりが監視しているので、投票に行かないわけにいかないだけ(笑)。都会にいるとわかりにくいけど、田舎では今もまだ、そうした共同体的動員が行われています。そういう所では、個人が自己責任で認識・評価・決定を行うという自己決定型の投票行動が存在しにくくなる。
 もう一つ典型的なのは、公明党・創価学会の選挙活動が許容されていること。政教分離には二つの柱があって、一つは『国家が宗教的な動員や宗教的な弾圧を行ってはいけない』という原則で、これは今回あまり関係ないのでとばします。もう一つは『宗教団体が政治的な動員を行ってはならない』という原則です。これが日本ではデタラメです。世界標準は明確です。宗教団体が政策――中絶禁止とか――を表現するのは思想信条の自由ゆえにOKです。でも特定の候補者を支援することは絶対禁止。これを破れば宗教法人資格は即効取り消し、税金が数倍に跳ね上がります。禁止する理由は二つある。一つは、優遇税制制度上、免除された税金で特定の候補者を応援することは、税金で特定候補者を応援するのと同じだからという理屈です。もう一つは、もっと重大な、でも日本ではなかなか理解されない理由です。たとえば『宗教的な良心があるのなら、Aに投票しろ』というような言い方をされると、各人を思考停止状態に留め置いたまま動員が可能になる。なぜなら『Aの考えはおかしい』と言おうものなら『教祖様がAこそは宗教的良心の権化だとおっしゃるのに、それを疑うとはお前によこしまな心があるからだ』という話になるからです。宗教的動員は『自分の頭で考えて投票する』という民主的な投票の基本原則に逆らうからいけないという理屈があるわけです。

 

既得権益には先がない。
我々が食っているパイは、
近い将来に消えてなくなります。   (『SIGHT』 2002年10月26日 ロッキング・オン)

 

 

 

 なぜここで記者クラブ問題を出すかというと、最も象徴的だからです。これまでも散々、批判されてきたわけですが、今の記者クラブ制度では、やはり仲間内の“特オチ防止体制”に止まらず、政府や官公庁との馴れ合いになってしまって、本当の意味での情報が出てこなくなる。その結果、権力の情報管理に手を貸してしまうということにもなるわけです。
 一例をあげると、アメリカで行なわれた四月のブッシュ大統領の記者会見では、最初からイラク情勢のベトナム化など厳しい質問が相次ぎ、大統領がタジタジとなり、立ち往生する場面が出てきます。ところが、今の日本の記者会見では、そんなことはとても考えられない。記者クラブの性格からして、ある種のセットアップされた演技空間をそこに構成しているだけになる。決して、記者会見が政権とメディアの緊張した勝負の場には、なりきれないわけです。
 そうした関係にある限り、本来ジャーナリズムが持つべき調査報道などへの期待もできなくなってしまう。記者クラブ問題が、EUなどから参入障壁として批判されるのは当然だし、すでに韓国ではやめたようなぬるま湯的な不合理な制度に、いつまでもぶらさがるべきではないと思いますね。

         途中略

 しかし、問題はかなり矮小化されていまして、一つはやらせの問題だったり、一つはワイドショー的な集団的加熱報道だったりするのですが、問題としてどれだけ重要なのかということについて、きちんと考える土俵がないような気がするんです。
 例えば、主題の切り取りということで言えば、限られた電波メディア、有限の時間リソースの中でなぜそのテーマにリソースをさくのか。これ、全部価値観が左右する、全く人為的なセットアップですよね。だからやらせ・やらせでないものという議論ではなくて、本質的な議論にしていかなきゃいけない。

         途中略

 ひとつだけ、言いたいと思います。僕がBBCの番組制作に協力した経験から言うと、随分認識に差があると思うんですね。
 NHKの番組に何度も出ていますが、とにかく万人が分かる、誰が見ても分かる番組にして欲しいって言われるんですね。
 でも、BBCでは逆の経験をしました。BBCはリサーチヤーの制度が充実していて、例えば援助交際の番組について僕がネタを提供すると、二週間後に「宮台さん、裏がとれましたので番組やりましょう」って踏み出すんですよ。しかも、かなり専門的な社会学的な仮説についても話していいと言うんです。「こんな風な作り方をすると、国内では見た人が一〇%しか分からないような番組にならないんですか」と言ったら、面白いことを言っていましたよ。「いや、少数者が知っておく必要がある深い情報があり得る。万人が理解できることだけがパブリックマスターではない」とプロデューサーが断言しました。僕は目からうろこでしたよ。

 

社会の変容とメディア
社会学者・宮台真司氏    (『放送研究と調査』 2004年6月号 日本放送出版協会)

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