とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 6 塩度計

2016-02-24 00:04:43 | 日記

夏の風物詩、そうめん作りが最盛期


 (この画像は当時の家の工場の雰囲気を知っていただくために掲載いたしました。勿論、当時の我が家の工場はこんなに近代的ではありませんでした。)

 ある日の夕食時、Aがふと上を見ると、台所の食器棚の上に白い箱が乗っかっていました。おやっと思い、降ろして開けて見た。中には素麺(そうめん)の束が入っていました。妻に聞くと、「あっ、忘れとった!」と言いました。少し黄ばんでいたので、大分古いもののようでした。
「島原手延そうめん・白糸の瀧」と書いた説明書に素麺乾しをしている絵が添えてありました。髪型、服装からして江戸時代の絵のようでした。生の素麺を短い竹にすだれ状にひっかけて、足の付いた乾し台の横板の穴に等間隔に挿し込み、たくさんの素麺のすだれ乾しをしていました。Aは、その絵の世界に吸い込まれていきました。
「昔からああして乾してたんだ!」。父母たちは私が幼い頃、その絵の通りの乾し台を使って饂飩(うどん)や素麺を家業として作っていました。からっと晴れていないと旨く乾しあがりません。だから、夏の炎天下での作業でした。
 眼の不自由な父親は細長いウキのような塩度計で桶の塩水の濃さを計っていました。塩度計がどのくらい水に沈んでいるか指で触って確かめていました。「塩加減が大事だけんのー。」。そう言って、塩を加えたり、水で薄めたりしていました。調整がすむと、小麦粉を入れた大型のミキサーにざあっと移し入れました。がらっ、がらっ、……。ミキサーが大きな音を出して動き始めると、父親はその音にじっと耳を傾けていました。
こね上がった生地はローラーで平たく延ばされ、カッターで切られ、細長い筋になって出てきました。それを母と祖母はすばやく竹ですくって持ち上げ、背丈くらいの長さに切って、走って乾し台まで持って出ました……。Aはその絵を見ながら、塩度計に触る父の指の微妙な動きをしばらく思い出していました。
 そうだ。Aは痛い目に遭ったこともありました。ローラーの端に小麦粉のカスがはみ出していたので、Aは人差し指で穿り出そうとしました。すると、チカッとして指先から血が噴き出しました。肉が削がれて爪だけが残っていました。Aは噴き出した血に驚いて手首を激しく振りました。辺りに血が飛び散り、せっかくの饂飩の帯が血まみれになりました。それからは包帯を太巻きにしていて字が書けなかったので、何か月もノートなしで授業を受けていました。
 乾しあがった麺は大型の包丁で短く切り、紙紐で束ねて木箱に詰めました。箱に貼ったラベルには政府指定製麺工場と記してありました。当時は食糧は統制品で生産した品物はすべて政府が買い上げてくれました。その木箱を作るのも大変でした。政府から箱の材料の板がどさっと届くと、家族全員がが金づちを執って釘打ちをしました。箱の組み立て作業も慣れないうちは難作業でした。特に目の見えない父親は何度も指や爪を叩き、血豆を作っていました。それから、小麦粉が品薄なのでトウモロコシの粉で饂飩を作ってくれという依頼もありました。母と父と祖母が知恵を出し合ってなんとか作り、納品できました。母たちのその時の笑顔をAは思い出しています。・・・Aの幼い頃のほろ苦い思い出です。

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