とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 49 あさま山荘事件・友の死

2016-10-25 04:56:46 | 日記
あさま山荘事件 30年目の真相


 連合赤軍というと、Aは一人の友人の死を思い出します。アジトから助け出されたRという女の子の父親、山本の死です。総括されました。

1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件とあさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。
山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」(詳細は後述)と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害した。また、革命左派は、連合赤軍結成以前に組織を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。
あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、某企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした人質篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。
連合赤軍メンバーは、クアラルンプール事件の際に超法規的措置で釈放・国外逃亡し、現在も国際指名手配されている坂東國男と、東京拘置所で自殺した最高指導者の森恒夫を除き、15人のメンバーに判決が確定した。(Wikiより)

◆山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日

▽1971年12月31日  尾崎充男   (22歳・革命左派)
▽1972年1月1日    進藤隆三郎  (21歳・赤軍派)
▽1972年1月1日   小嶋和子   (22歳・革命左派)
▽1972年1月4日   加藤能敬   (22歳・革命左派) 
▽1972年1月7日   遠山美枝子  (25歳・赤軍派)
▽1972年1月9日   行方正時    (25歳・赤軍派)
▽1972年1月17日  寺岡恒一   (24歳・革命左派)
▽1972年1月19日  山崎順     (21歳・赤軍派)  
▽1972年1月30日  山本順一   (28歳・革命左派)
▽1972年1月30日  大槻節子   (23歳・革命左派)
▽1972年2月4日   金子みちよ   (24歳・革命左派) 
▽1972年2月12日  山田孝     (27歳・赤軍派)

凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。

◆山本順一
 1943年愛知県岡崎市生まれ。大学卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、愛知県の父親が引き取り育てた。(享年28)。

◆山本保子
 中京安保共闘。殺害された山本順一の妻。2月初めに脱走し、3月に自首した。娘を奪われ、すでに殺害されたものと思っていたが、無事保護されたと知って泣き出した。(以上「連合赤軍リンチ事件」より引用。http://yabusaka.moo.jp/sekigunjiken.htm)

大学在学中の山本君はすでに左翼思想に傾倒していたようでした。Aは友達が「沖縄研究同好会」を作ったので興味本位で毎回参加していました。岩波新書の「沖縄の文化」(書名の記憶は定かではありません)をテキストにして話し合いなどをしていました。すると山本はふらっと部屋に入ってきて、じっと立ったまま話を聞いていました。友達が入会を勧めると迷っているような素振りを見せ、やがて黙ったまま外に出ていきました。そういうことが何度もありましたので、Aは山本に話しかけて勧誘しようと思っていました。しかし、その機会はありませんでした。
大学卒業後、連合赤軍事件について新聞は連日のように報じていました。ある日の新聞に山本が裸のままアジトの柱に縛られて凍死したという記事が出ていました。私は目を疑いました。あの大人しい山本がメンバーに加わっていたことが信じられませんでした。・・・子どもが救出された !! ああ、よかった。Aはその子どもの将来を考えながら、山本がそういう道に進んでいった動機をいろいろ調べました。しかし、確たる根拠を示す資料には出会いませんでした。同時に大きな社会不安を抱え込んで悩んでいました。




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