絵の魔力
「鉄道」マネ(1872年-73年制作 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
はじめに言葉ありき。・・・こういう言葉がある。「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意」らしい。(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から)
それでは、人間が意思の疎通を図るとき、初めに思いついた手段は何だったのだろう。言葉? 身振り手振り? はたまた呪術的な何かの方法? ・・・いやいや、私には分かりません。しかし、この絵に見入ると、その手段は素朴な絵ではなかったのかと思えてくる。
左に母親、右に子ども。自然にそう思えてくる。ところが、子どもは後ろ向きである。画家が後ろ向きの像を描くことはあるが、それにしてもこの子どもと母親の仕草はちぐはぐである。
母親は本を広げている。しかし、どうも読書に集中できていないようである。何だか表情に力がない。ところが、子どもは汽車に心を奪われている様子。今しも動き出そうとする汽車に。この対照が面白い。描きたかったのはそこにあるようである。うがった解釈だが、この子どもは遠い昔の母親自身かも知れない。この女性はかつての溌剌とした子ども時代を懐かしく思い出しているのかも知れない。作者はこの対照の中にごく普通の人間の瞬時の思いを定着させたのである。この微妙な心の状況は言葉とか文字では決して表すことはできない。
私は、二人展がまだ終わらないある日、二人の家に出かけました。もちろん、家にはお母さんと孫が留守番しています。私は、お母さんと少し話がしたかったのです。
お母さんが買われたあの佐山さんの絵は今どこに・・・。
ああ、あの絵は京子の学生時代の友達の家に預けています。うちにはあんな大きな絵をかけておくところはありません。
友達のところですか。
そうです。もう立派なグラフィック・デザイナーです。
油絵ではないんですか。
ええ、でも、褒めてくれました。
そりゃそうでしょうね。・・・思い切ったことをされましたね。
もう、私が買わねばとずっと思ってました。
そうですか。・・・お母さん、絵はお好きですか。
いいえ、ちっとも分かりません。・・・主人がどんどん絵を買い込んでくるようになって、私、腹立てていました。
そうですか。
で、その絵はどうされたんですか。
さあ、どうしたのか分かりません。・・・恐らく家を出るときに売り払ったんでしょう。
そうですか。
畝本さん、出て行った私がまた帰ったことを変に思ってませんか。
えっ、どうしてですか。お父さんたちはもう帰らないと仰っているようですから・・・。立ち入ったことを言って申し訳ありませんが、私は三人の、いや四人の新しい家族と思っています。
でも、世間が・・・。
そう仰ると私は何とも・・・。
ご免なさい。帰ることが出来たのは、京子と孫がいたからです。・・・いろいろとお世話になりました。
いやいや、私は何にも・・・。
あっ、畝本さん、孫を抱いてやってください。
えっ、いいんですか。
ぜひ・・・。そう言ってお母さんは奥から赤ん坊を抱いてきて、私に委ねました。
おっ、案外重いですね。久しぶりですよ、赤ん坊をだっこするなんて。
母親似ですよ。
そうですね。眼のところなどそっくりですね。
私は、そのとき嬉しいやら恥ずかしいやら、何だかこそばゆい気持ちがしました。暖かくて柔らかくて、何とも心地いい気分になりました。と、同時に奇妙な錯覚を覚えました。・・・自分が自分を抱いている、そういう気持ちになったのです。それから、その感覚は、全く異質な、甘い幻を抱いているような気分に変わりました。
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「鉄道」マネ(1872年-73年制作 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
はじめに言葉ありき。・・・こういう言葉がある。「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意」らしい。(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から)
それでは、人間が意思の疎通を図るとき、初めに思いついた手段は何だったのだろう。言葉? 身振り手振り? はたまた呪術的な何かの方法? ・・・いやいや、私には分かりません。しかし、この絵に見入ると、その手段は素朴な絵ではなかったのかと思えてくる。
左に母親、右に子ども。自然にそう思えてくる。ところが、子どもは後ろ向きである。画家が後ろ向きの像を描くことはあるが、それにしてもこの子どもと母親の仕草はちぐはぐである。
母親は本を広げている。しかし、どうも読書に集中できていないようである。何だか表情に力がない。ところが、子どもは汽車に心を奪われている様子。今しも動き出そうとする汽車に。この対照が面白い。描きたかったのはそこにあるようである。うがった解釈だが、この子どもは遠い昔の母親自身かも知れない。この女性はかつての溌剌とした子ども時代を懐かしく思い出しているのかも知れない。作者はこの対照の中にごく普通の人間の瞬時の思いを定着させたのである。この微妙な心の状況は言葉とか文字では決して表すことはできない。
私は、二人展がまだ終わらないある日、二人の家に出かけました。もちろん、家にはお母さんと孫が留守番しています。私は、お母さんと少し話がしたかったのです。
お母さんが買われたあの佐山さんの絵は今どこに・・・。
ああ、あの絵は京子の学生時代の友達の家に預けています。うちにはあんな大きな絵をかけておくところはありません。
友達のところですか。
そうです。もう立派なグラフィック・デザイナーです。
油絵ではないんですか。
ええ、でも、褒めてくれました。
そりゃそうでしょうね。・・・思い切ったことをされましたね。
もう、私が買わねばとずっと思ってました。
そうですか。・・・お母さん、絵はお好きですか。
いいえ、ちっとも分かりません。・・・主人がどんどん絵を買い込んでくるようになって、私、腹立てていました。
そうですか。
で、その絵はどうされたんですか。
さあ、どうしたのか分かりません。・・・恐らく家を出るときに売り払ったんでしょう。
そうですか。
畝本さん、出て行った私がまた帰ったことを変に思ってませんか。
えっ、どうしてですか。お父さんたちはもう帰らないと仰っているようですから・・・。立ち入ったことを言って申し訳ありませんが、私は三人の、いや四人の新しい家族と思っています。
でも、世間が・・・。
そう仰ると私は何とも・・・。
ご免なさい。帰ることが出来たのは、京子と孫がいたからです。・・・いろいろとお世話になりました。
いやいや、私は何にも・・・。
あっ、畝本さん、孫を抱いてやってください。
えっ、いいんですか。
ぜひ・・・。そう言ってお母さんは奥から赤ん坊を抱いてきて、私に委ねました。
おっ、案外重いですね。久しぶりですよ、赤ん坊をだっこするなんて。
母親似ですよ。
そうですね。眼のところなどそっくりですね。
私は、そのとき嬉しいやら恥ずかしいやら、何だかこそばゆい気持ちがしました。暖かくて柔らかくて、何とも心地いい気分になりました。と、同時に奇妙な錯覚を覚えました。・・・自分が自分を抱いている、そういう気持ちになったのです。それから、その感覚は、全く異質な、甘い幻を抱いているような気分に変わりました。
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