とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

(番外)Taylor Swift - Shake It Off - Live Australia X Factor 2014 [HD]

2017-08-12 10:39:09 | 日記
アメリカにはこんなパワーが存在していたのだ !!! 私は全く知らなかったのです。

Taylor Swift - Shake It Off - Live Australia X Factor 2014 [HD]



テイラー・スウィフト(Taylor Swift、1989年12月13日 - )は、アメリカ合衆国のポップ歌手、シンガーソングライター。女優として映画やテレビドラマにも出演している。身長176  cm、足のサイズは26.5cm。
ポップ界の女王LADY GAGAは一時期廃れていたポップ界を活性化させそれに次いでテイラー・スウィフトが立て続けにヒット曲を生み出しており、ファン層も広く、しばしば「America's sweetheart」とも呼ばれる。



14歳でテネシー州ナッシュビルに転居した。2004年、RCAレコードの養成所と契約し、Sony/ATVとの契約では最も若いソングライターとなった[38]。トロイ・ヴァージェス、ブレット・ビーヴァーズ、ブレット・ジェイムズ、マック・マカナリー、ウォレン・ブラザーズなどミュージック・ロウのソングライターとともに書いた曲を提出し続けた。彼女は最終的にリズ・ローズとチームを組み続けた。スウィフトはローズとRCAのソングライター・イベントで出会い、共に作曲することを提案した。2人は毎週火曜日の放課後、2時間の作曲セッションを行なった。ローズはこのセッションについて「とてもやりやすかった。ただ単に私は彼女の編集者だった。彼女はその日学校であったことを作曲した。彼女は言いたいことが明確だった。そして彼女が作るさびはとても素晴らしかった」と語った。スウィフトはまたプロデューサーのネイザン・チャップマンともデモ・テープのレコーディングを行なった。

2004年、ニューヨークのライヴ・ハウスで行われたBMIソングライターズ・サークルのショーケースでの演奏後、ソニーATVミュージックパブリッシングにソングライターとして最年少で採用された。15歳の時、自身の曲でキャリアを開始したかった彼女は、他のソングライターの曲を歌わせたがり、18歳までアルバムの出版を待つとしたRCAレコードを離れた。のちに「私は純粋に時間がないと思っていた。彼らは私がやっていることを見ているだけで、私はアルバムの製作に時間を費やしたかった」と語った。またマネージャーのダイントロウとも決別したため、後にスウィフトと両親は訴えられることとなった。2010年、裁判でダイントロウの訴えの6つは無効となり、残りの不当利益の返還要求は示談となった。

2005年、ナッシュビルのライヴ・ハウスブルーバード・カフェでのショーケースで、スウィフトは、自身のレーベルビッグ・マシン・レコードの準備中であったドリームワークス・レコードの重役スコット・ボーケタから注目された。スウィフトの父はこの新会社の資本金の3%(12万ドルとみられる)を支払い、彼女は最初の契約者の1人となった。カントリー・ミュージック業界への参入において、ボーケタはスウィフトにCMAミュージック・フェスティバルでのエスコート役を経験させた。


2006年、カリフォルニア州サンタマリアのカフェでギターを演奏するスウィフト
ビッグ・マシン・レコードとの契約直後、スウィフトは本人の名を冠したアルバム『Taylor Swift 』の製作に取り掛かった。ナッシュビルのベテラン・プロデューサーとの試行錯誤の後、デモ・プロデューサーとしてネイザン・チャップマンを雇うようビッグ・マシンを説得した。彼にとってこれが初めてのスタジオ・アルバムとなるが、スウィフトは彼とよい「化学反応」ができると確信していた。スウィフトは1人で2曲のシングルを含む計3曲を書き上げ、他の8曲をローズ、ロバート・エリス・オラル、アンジェロ・ペトラグリアと共に作曲した。このアルバムは音楽的に「カントリーの伝統楽器と今どきのロック・ギターの融合」と説明されている。

2006年10月24日、アルバム『Taylor Swift 』が発売され最高位5位を記録。『ニューヨーク・タイムズ』紙は「このポップ調のカントリーはスウィフトのしっかりした訴えるような声によって快活さと皮肉を併せ持つ」と記した。『ザ・ニューヨーカー』誌のサーシャ・フレア・ジョーンズはこの16歳のスウィフトを「神童」と呼び、「『[[::en:Our Song (Taylor Swift song)|Our Song]] 』を聴いた途端ハッとした」として「He's got a one-hand feel on the steering wheel, the other on my heart. (彼は片手でハンドルを、もう片方の手で私の心を感じているよう)」との歌詞を称賛した。『ローリング・ストーン』は「フレッシュだが意外と熟練した」と評し、『Our Song 』の狂おしいほどのさびのメロディの歌い方をブリトニー・スピアーズやパッツィー・クラインのようだと称賛した。

2006年6月、シングル『[[::en:Tim McGraw (song)|Tim McGraw]] 』が出版されたが、まだ新しいビッグ・マシン・レコードのためスウィフトと母はラジオ局に送るためのCDを封筒に入れる作業を手伝った。2006年の1年間のほとんどをデビュー・アルバムのプロモーションのため全国のラジオ局をまわり、のちに「ほとんどのアーティストはラジオ・ツアーに6週間を費やす。私は6ヶ月かかった」と語った。スウィフトは自分の曲をかけてくれるラジオ番組に贈るためにクッキーを焼き、絵を描いた。また『グランド・オール・オープリー』、『グッド・モーニング・アメリカ』、『トータル・リクエスト・ライブ』など多くのテレビ番組にも出演した。自身を「ネット世代」と表すスウィフトは、Myspaceのページを立ち上げた。これは当時、「カントリー界の革命」であった。16歳のシンガーソングライターのこの決断に対しボーケタは当初眉をひそめたが、スウィフトは10代の少女たちにカントリー・ミュージックを聴いてもらうべく新たな領域に足を踏み入れた。

2008年11月11日に全米でセカンド・アルバム「Fearless」をリリースし、第52回グラミー賞年間最優秀アルバム賞を史上最年少で受賞。発売後1週間で59万2000枚を売り上げBillboard 200で1位を獲得した。同アルバム内の曲で、同年9月12日にシングルカットされた「Love Story」はiTunes Storeで2位、ビルボード100で4位を記録し、大ヒットしている。また、同アルバムに収録された「Change」は一部が北京オリンピックのアメリカ代表の応援曲に採用され、NBCによるオリンピック中継の際に流れた。3番目にシングルカットされた「You Belong with Me」も、ビルボードTOP100において彼女にとってこの時点での最高位である2位を記録するなど大ヒットした。

また、2008年10月25日にフィラデルフィアで行われたMLBのワールドシリーズの試合前にアメリカ合衆国国歌「星条旗」を歌った。
2009年9月13日、MTV Video Music Awards 2009で最優秀女性アーティスト・ビデオ賞受賞のスピーチをしている最中に、突然舞台上に泥酔して乱入してきた歌手のカニエ・ウェストにマイクを奪われ、スピーチを妨害されるというハプニングがあった。ショックのあまり舞台裏で母親と涙を流したそうだが、その後ビヨンセの計らいによりスピーチを改めて行った。カニエに対しては、テレビでの何度もの謝罪と、気にかけてくれる周りの人の温かさで、その後許したという。


カナダのプリンス・エドワード・アイランドでのライブ(2010年)
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により被災した人々と日本に住む全ての人に向けてのメッセージとして MUSIC PEN CLUBにて「日本で被災された皆さんに、私の想いと祈りと愛をお送りします」と語っている。

2010年に3rdアルバム「Speak Now」をリリース、また2012年の4thアルバム「Red」では一週間で約120万8000枚のセールスを記録し自らが持つ初週セールス記録を大きく上回る結果を残していたテイラーだが、2014年の5thアルバムの「1989」は発売後一週間ですでに約128万7000枚の売上を記録しBillboard200で1位を記録。初週売上最高記録を保持する歴代アーティストたちに迫る売上を記録している。シングルカットされたシェイク・イット・オフとブランク・スペースはともにビルボード Hot100においてNo.1となるヒットを記録した。

2014年、ニューヨーク市のグローバル・ウェルカム・アンバサダー(観光大使)に就任。

2015年2月には「1989」から3作目のミュージック・ビデオ「Style」が公開された。

2015年5月5日から始まった「ザ・1989・ワールド・ツアー」の東京ドーム公演では2日間で計10万4千人の観客を動員した。

2015年5月にミュージックビデオ「Bad Blood」が公開後24時間以内で最も多い2010万回再生され、ラッパーニッキー・ミナージュのミュージックビデオ「Anaconda」の1960万再生回数の記録を破った。

2016年2月 米音楽界の権威『第58回グラミー賞』で「年間最優秀アルバム」「最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム」「最優秀ミュージック・ビデオ」を獲得した。「年間最優秀アルバム」の受賞は第52回グラミー賞に続き2度目であり、女性では史上初。(Wikiより)