南の海に「海ゆかば」の大合唱がこだました。2日、約160人が参加してバシー海峡を望む台湾南端の潮音寺(ちょうおんじ)で行われた戦後70年の慰霊祭。海中に眠る父祖の霊に向けて遺影を掲げる遺族、「父と同じ場所に…」と亡き母の遺骨を持参した女性もいた。ギラギラと照りつける熱帯の日差しとコバルトブルーの美しい海。70年以上前、フィリピン・ルソン島へと続くこの海が、おびただしい数の若い日本人の命をのみ込んでいったことを現代人は知らない。
戦争末期、戦局が悪化した日本軍は起死回生の決戦に臨むべく、残った兵力をフィリピンへ向けて送り込む。しかし、制海権、制空権を米軍に奪われ、兵員や物資を満載した日本の艦船は、ことごとく米潜水艦の餌食となってしまう。
慰霊祭で導師を務めた佐賀・禅林寺住職、吉田宗利(むねとし)(73)は昭和19年12月にバシー海峡で撃沈された駆逐艦「呉竹(くれたけ)」艦長、吉田宗雄の長男。「私は父が最後に行くとき、『僕も一緒についてゆく』と聞かなかったらしい。今日は、父のためだけでなく、この地に散った幾万の英霊のために務めさせてもらった」
無念の思いを胸に刻みながら海中に消えた命は少なくとも10万人以上とされる。近くの海岸には連日、多くの日本人の遺体が打ち上げられたという。そのとき、日本兵らの遺体を収容し、手厚く葬ってくれたのが台湾の地元住民だった。
潮音寺は、昭和56(1981)年8月19日、バシー海峡で九死に一生を得た元独立歩兵第13連隊通信兵、中嶋秀次(ひでじ)(平成25年、92歳で死去)の強い思いによって建立された。昭和19年8月、中嶋が乗船していた「玉津丸」と約30隻の船団はこの海域で米潜水艦の急襲に遭う。沈没までわずか5、6分。玉津丸に乗っていた仲間のほとんどがこのとき戦死した。
中嶋の「地獄」はそこから始まる。何とか非常用のイカダにしがみついたが、非常用の水、食糧はわずかしかない。仲間が1人、2人と息絶えてゆく。「正気じゃなくなるんです。『水をくれ』と狂ったようにわめいていたかと思うと突然、静かになる。見に行くともう、死んでいた」
漂流12日目の夕方、奇跡が起きた。すでに意識がもうろうとした中嶋は、水平線の向こうに友軍の船を見つける。玉津丸の約5千人のうち、助かったのは中嶋を含め、たった8人だけだった…。
戦後、戦友の遺族を訪ねた中嶋は「せめて、わが子が逝った場所を見せたい」とバシー海峡が見える地に母親たちを連れて行った。海に向けて花を手向け、慟哭(どうこく)する遺族の姿を見て中嶋はこの地に慰霊施設の建立を決意する。簡単な仕事ではない。異境の地であり、すでに日本との国交は失われている。日本で旅行会社を経営し台湾を行き来する中嶋にとって、何よりも助けになったのは台湾の民間の人々の協力であった。
台北市でホテルの支配人をしていた洪銀河(故人)は戦争末期に海軍に徴兵され、仲間の慰霊をしたいという中嶋の熱意に深く共鳴したという。地権者との交渉は洪が代行。日本にいる中嶋に代わり、建設作業の監督も引き受けた。
洪と2人で台北から何度も現場に通った妻の李秀燕(64)は「なぜこんな面倒なことを引き受けたのかと夫に怒ったけれど、参拝者の涙を見て考えが変わった。戦争で命を落とし、故郷に帰れなかった日本人のために、できることをしようと思った」。
数千坪の敷地購入と建物(本堂)の建築費用は邦貨にして、ざっと4、5千万円。中嶋は私財をなげうち、遺族からの寄付(約2千万円)もそれに充てることにした。
潮音寺が所有権をめぐるトラブルに巻き込まれたとき、高雄の観光バス会社副社長、鍾佐栄(64)は中嶋の代理人となり、弁護士費用から和解金まですべてを負担した。南海に眠る戦没者を見守ってきた潮音寺は、いつしか「日本と台湾を結びつける“ちょうつがい”になった」(小川智男・潮音寺主管)。
今、潮音寺を守ってきた日台の関係者が心配するのは、常駐の管理者がいないため、老朽化した建物がさらに傷んでいくことだ。遺族らが参拝に訪れても十分な宿泊施設もない。慰霊祭実行委員長の渡辺崇之(たかゆき)(42)は「今後、潮音寺を存続させてゆくために委員会を立ち上げた。ぜひ皆さんの協力をお願いしたい」と呼びかけていた。
@それに引き換え、沖縄のクソども・・・・・・・
表紙は変ですが、観れます。特攻隊員は命と引き換えに沖縄を守ろうとしました! 是非ご覧ください。拡散希望