セキレイ鍼灸院のブログ

    ~ 鍼灸、悠久なる伝統医療 ~

名医 扁鵲(へんじゃく)のはなし!  第1回 扁鵲の人物像① 

2015年10月13日 | 日記
鍼灸の世界では神様である、名医 扁鵲(へんじゃく)について記載したいと思います。

第1回 扁鵲の人物像
第2回 扁鵲が医学を学んだ地、盧(ろ)(山東省)
第3回 司馬遷(しばせん)「史記 扁鵲倉公列伝(へんじゃくそうこうれつでん) 第四十五」
第4回 司馬遷と史記
第5回 扁鵲が残した医書
よろしくお願いします。

今回は、第1回 扁鵲の人物像① です。

扁鵲は、中国の春秋、戦国時代(B.C.770~B.C.221)の名医です。
性は秦(しん)、名は越人(えつじん)。



孔子と同世代で、同じ現在の山東省出身です。
孔子と時代も場所も同じに活躍しました。想像力をかきたてられます。
お酒をくみかわしながら、互いに語り合っているかもしれません。

孔子は中庸(ちゅうよう)思想といって、かたよらず過不足がない、
バランスの取れた状態が最も良いと言っています。

扁鵲の治療も、身体の陰と陽、五行のバランスを中庸にととのえます。 

        
        3.000人の弟子を持った孔子


扁鵲は、現在でも行われている、東洋医学の診断方法 ①「望・聞・問・切」 を造った人です。   
特に脈診(手首の脈の状態を診る方法)の創始者として有名です。

※下線は注釈です。

史記 扁鵲倉公列伝(へんじゃくそうこうれつでん)には、

   「今に至(いた)るまで 天下の脈を言う者は、扁鵲に由(よ)る也(なり)。」

(訳)「脈法(脈の診かた)について語る 天下の人々は、今なお扁鵲の脈法を よりどころとしているのである。」

        
        中国では、脈診といえば扁鵲(秦越人)です。 

現在の北京から河北省、山東省にかけて、活躍していました。


扁鵲(秦越人)は 史記のほかに、中国では有名な書物である 
列子(れっし)、韓非子(かんぴし)、 韓詩外伝(かんしがいでん)、戦国策(せんごくさく) 
に記載されています。
このことから、個人的には実在した人物と考えています。


史記の④自序 「太史公自序 (たいしこうじじょ)」には、

   「扁鵲、医を言ひて、方者の宗と為り、数を守ること精明なり。 

    後世、循序して、易(か)ふる能(あた)はざるなり。

    而(しこう)して倉公(そうこう)は 之に近しと謂(い)ふべし。 

    扁鵲倉公列伝 第四十五を作る。」


(訳)「扁鵲は、医術を論じ、医家の大家となり、法則を守ることに、きわめて誠実であった。

    後世の医家は、扁鵲の医術に忠実にしたがい、変えることがなかった。

    また、⑤倉公は扁鵲に近い存在と言うことができる。

    扁鵲倉公列伝 第四十五を作る。」

    と記載されております。

扁鵲(秦越人)は、東洋医学の診断方法と、治療方法の基礎を創った人物です。



【注釈】

「望・聞・問・切」      
 東洋医学には診察方法に、望診(ぼうしん)、聞診(ぶんしん)、問診(もんしん)、切診(せっしん)があります。
 望診は、患者さんの状態を、視覚を通じて、診察する方法です。 顔色や身体の皮膚の状態などを診ます。
 聞診は、患者さんの状態を、聴覚を通じて、診察する方法です。 患者さんの口調、咳、呼吸などを診ます。
 問診は、患者さんから、状態を伺う診察方法です。 痛むところ、程度などを伺います。
 切診は、患者さんの状態を、触覚を通じて診る方法です。 脈診も含まれます。
                 
史記 
 中国の前漢に、司馬遷(しばせん)が多くの文献を集め、それに基づいて記述した歴史書です。

列子(れっし)  
 道家思想書。8編。
 諸子百家の時代(秦の始皇帝が即位する約160年前)の列子が著述したと言われています。
 故事、寓言、神話を多くのせ、唐代(A.D.618~A.D.907)に道教教典として尊ばれました。

韓非子(かんぴし)     
 戦国時代(秦の始皇帝が即位する約10年前)の思想書。20巻55編。
 韓非およびその学派の著作を集めたものです。 秦王朝に始まる官僚国家を創る理論的な柱となりました。
 後世では、三国志の諸葛亮(しょかつりょう)が、劉備(りゅうび)の子息、劉禅(りゅうぜん)に教材として献上しました。

韓詩外伝(かんしがいでん) 
 中国の古代説話集。10巻。
 前漢(漢の初代皇帝、高祖(劉邦)が崩御した頃)、韓嬰(かんえい)が著述しました。
 古い故事、逸話を、「詩経」の詩句と関連づけて解説したものです。
 韓詩内伝はなくなり、本書が伝わりました。
 
 ※詩経  
 中国最古の詩集。305編。 
 B.C.1100年頃に詩経の一部がつくられ、B.C.600年頃までに成立しました。 
 伝承によれば、孔子が門人の教育のために編纂したものです。

戦国策(せんごくさく)  
 前漢(項羽が劉邦に「垓下(がいか)の戦い」に敗れた約200年後)、劉向が著述。33篇。
 戦国時代の遊説(ゆうぜい)の士の言説(げんせつ)です。
 国策(国家が決定する政策)、献策(目上の人に方策を申し述べる)、
 その他の逸話(世間や人にあまり知られていない興味深い話。エピソード)を国別に編集し、まとめ上げた書物です。 
 「戦国時代」という語は、この書に由来します。
  
 ※遊説(ゆうぜい)
 春秋戦国時代、各国で諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれるさまざまな学派が生まれ、
 自説が受け入れられる場を求めて諸侯を旅してまわりました。
 弁説をもって政治を動かそうと諸国を巡るものを遊説といいます。 
 儒教をとなえた孔子は、みずから弟子をひきつれて常に諸国を遊説し、東西南北の人といわれました。
  
 ※言説(げんせつ)
 意見を言ったり、物事を説明したりすることです。また、その言葉。          

自序  
 書物や作品のはじめ、又はおわりにその書物や作品を説明するために載せる文章です。古くは末尾におかれました。

太史公書(たいしこうしょ) 
 司馬遷自身が名付けた書名です。 後世「史記」と呼ばれ、これが一般的な書名になりました。

倉公(そうこう)  
 性は淳于(じゅんう)、名は意。現在の山東省出身。カルテの創始者です。
 若い頃から医術を好んでいた。B.C.180年おなじ群の陽慶という人物から、
 黄帝(こうてい)、扁鵲の脈書を伝えられました。