さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

少しずつ明るく空が和らいで

2019-02-18 | 日記
会津の空にも春がやってくる




晴れた日には2~3輪のオオイヌノフグリの花も見られますがフキノトウの蕾はまだまだ開きません


明るい春の日が続くのはまだまだ先のようです


オオイヌノフグリの花は小さく可憐ですけど外来種でたくましく雪消えの晴れ間の土手から晩秋の草むらの中にまで咲き続けます。カタクリや アズマイチゲのように早春に花を咲かせて他の草むらや若葉の茂る頃には姿を消してしまう日本古来の山野草と違って私は好きになれません。古老の偏屈なんでしょうね。オオイヌノフグリなどというおかし名前ではなくて「星の瞳」という美しい名前に変えて愛好なさっていらっしゃる方もおられるようですから。

私だって同じ外来種のシロツメクサの中から四つ葉のクローバーなどを見つけ採ってきてコップに挿してばあちゃんを喜ばしていますから。私の大嫌いな外来種セイタカアワダチソウだって、今は挿華につかったり浴槽に入れたりなさる方もいらっしゃると聞いています。時代は激しく変わっていくんですね、偏屈な古老は置いていけぼりにされてしまいます。

幼かった日の思い蘇らせて歩む遠い道

2019-02-16 | 日記


80数年昔のことですけども、私は小学校1年から5年までの幼い日を福島県側からの尾瀬沼登山口の檜枝岐村の隣の集落小立岩という山あいの小さな集落で暮らしていました。

通っている小学校は小さな教室が二つに茅葺き屋根の民家のような小さな学校でした。小学校の前には小さな水田があってその先に標高1000mほどの険しい雪崩跡のある山ガ迫っていました。



小学校や寺などのある集落は北側の愛宕山と南側のこの険しい山に夾まれた幅150mほどの狭い平地にありました。居平と呼んでいるんです。子供の私にとってはその狭い平地にある集落が私の全世界でした。その狭い山にはさまれた平地の集落が私の懐かしい古里です。ですから車のあった頃の私は数年に一度は必ず訪問して集落の鎮守の神社にお参りし、「さんたろう只今帰りました」と心静かにお祈りしていました。




机を並べている私の小学校の同級生は女の子が3人と、男の子が私を含めて3人合わせて6人でした。先生はといえば小学校の高等科を優秀な成績で卒業したばかりの男の代用教員の先生でした。当時の小学校高等科は2年ですから今の中学3年の年頃の若くて明るい先生でした。私たちは兄のように慕い先生は私たちを弟や妹のように可愛がりとても楽しい学級でした。その時の小学校の先生は正規の先生一人とこの若い代用教員の二人の先生しかいなかったんです。児童数が少なかったせいもあるんでしょうけど、当時は小学校の先生の給料は村で支払っていたと聞いていますから当時の小さな村ではそれがやっとだったんだと今は思います。

6人の同級姓みんなそれぞれの個性があって明るく楽しい仲間でした。その同級正の中で一番勉強のできる子はとみこさんという賢こそうな可愛い女の子で、私はひそかに心惹かれていたんですけどそのことを知られるのがいやでわざと無関心を装っていました。

とみこさんのおうちは小学校のある小立岩から1.5kmほど離れた大桃という集落にありました。いまでこそそこへの道は尾瀬沼への舗装された立派な国道になっていますけど、当時は馬車一台がやっと通れる砂利道でした。檜枝岐側の激しい流れの見える山の崖に作られた「へつり」という怖い場所の道もありましたし、ブナやクヌギの森の中の長い道も、檜枝岐川を渡る細い板橋もありました。冬季は積雪で子供は通えず大桃に分教場が開設されました。

小学校5年の初夏のことでした。なにかの事情があってとみこさんはその道を一人で帰らなければならなくなりました。そして私にいうのです。
「おれ、ひとりで帰るのおっかねがら、さんたろういっしょしてけねがや、」
「私一人で帰るの怖いから一緒してくれない」

私は胸がとどろくほどうれしかったんですけど、無愛想に「うん」とうなずきました。帰り道
の二人は道の両はしに分かれて黙って歩みました。今まで気づかなかった険しいへつり道の下をながれる檜枝岐川の流れの音が聞こえました。ぶなの林の中の道はえぞ春蝉のにぎやかな「みよぎーんみよぎーん、ぎんぎん」という声で賑やかでした。深い山の谷の上の空を二羽のハヤブサがかろやかに輪を描いていました。それでも二人は一言も話しませんでした。

とみこさんの家は留守でした。とみこさんは私の目をみて
「ちょっこらまってでてけろやな」
「ちょっと待っててね」
といって家の裏にいって2本のキュウリと塩の包みをもって来てだまって差し出しました。私もだまって受け取りました。

たったそれだけのことです。それからの二人のあいだには変わったことはなんにもありません。いままで通りでした。私は六年生になるとき父の仕事で大きな学校に転校しました。それから80数年92歳になった爺いが懐かしい思い出を鮮やかに思いだしながらの遠い道の散歩でした。私は「92歳」ですからとみこさんも92歳、時には「あのとき」の二人のことを思い出すこともあるんかな?・・あるはずがありませんよね!